マッチの歴史
HOME > バーチャルミュージアム > マッチの歴史 > 躍進続けるマッチ業界
阪神・淡路大地震で大きな被害を受けた日本燐寸工業会は平成9年(1997)から兵庫県土地改良事業団体連合会と共同で、元の燐寸工業会事務所跡にビル(6階建)を建設し、平成11年(1999)に完成した。社団法人日本燐寸工業会は事務所はその1階の西側(広さは約300? )にある。
日本のマッチ工場は広告マッチ製造が得意であり、輸出マッチはほとんどが広告マッチで、その輸出先は主にヨーロッパとアメリカである。ヨーロッパもマッチの需要減少に対し従来力を入れてなかった広告マッチに注目して、次第に広告マッチの生産体制を整えるとともに、欧州の市場を支配していた日本のマッチに対し、EU当局にダンピング提訴を行った。そして平成9年から5年間、日本からの輸出マッチに対しダンピング課税を実施した。税率は製造業者によって差があるが9.4%から42.1%という過酷なものであった。しかしながら広告マッチの種類、品質やサービスは日本製が優れているので、急激な減少はなかったものの次第に輸出量は減少していった。
最近10年間のEU向け輸出量は次の通り。(出所:日本貿易統計)
平成7年(1995) | 679,280 kg |
平成8年(1996) | 662,714 kg |
平成9年(1997) | 624,627 kg |
平成10年(1998) | 623,866 kg |
平成11年(1999) | 665,507 kg |
平成12年(2000) | 650,947 kg |
平成13年(2001) | 591,004 kg |
平成14年(2002) | 525,395 kg |
平成15年(2003) | 484,954 kg |
平成16年(2004) | 463,663 kg |
マッチの生産・出荷の調査、生産調整事業を主な業務としていた日本燐寸工業組合は、調整事業がなくなったこともあり、平成10年(1998)9月に解散している。以後各種の調査事業は社団法人日本燐寸工業会で受け継いで継続している。
平成12年(2000)に社団法人日本燐寸工業会ではIT時代に対応してマッチに関する知識を載せたホームページを作成。その内容は「マッチの歴史」「マッチのできるまで」「マッチ雑学辞典」「マッチライブラリー」から成っている。
マッチ業界の将来の発展に向けて、業界若手経営者が集まって協議する業界活性化委員会は平成13年(2001)10月に始まっているが13年度は5回、14年度は6回、15年度は3回、16年度は7回開催して効果をあげている。同委員会の指導のもとに、マッチのPRを目的として平成14年(2002)に大阪で「マッチエキシビジョン2002」、姫路で「クラシックラベルアート展」、「あかり展」に出品展示し、平成15年(2003)には独特なデザインの「オンリーワンマッチ」を作成、PRをしている。また、平成17年(2005)には名古屋の「燐票浪漫展」、岡山県立美術館の「燐票大展覧会」にも応援出品した。同年、社団法人日本燐寸工業会で新規ウェブサイト「マッチの世界」を公開する。
昭和61年から平成16年に至るマッチの生産量および輸出量は次の通り。
総生産量 (マッチトン) |
内・輸出量 (マッチトン) |
|
---|---|---|
昭和61年 | 154,253 | 17,525 |
昭和62年 | 136,485 | 15,608 |
昭和63年 | 129,712 | 16,258 |
昭和64年 | 111,193 | 16,525 |
平成2年 | 103,449 | 15,868 |
平成3年 | 93,298 | 15,214 |
平成4年 | 84,833 | 13,220 |
平成5年 | 74,365 | 11,762 |
平成6年 | 67,330 | 11,391 |
平成7年 | 60,979 | 9,969 |
平成8年 | 58,886 | 9,963 |
平成9年 | 55,185 | 10,939 |
平成10年 | 51,650 | 10,455 |
平成11年 | 47,744 | 10,813 |
平成12年 | 43,930 | 10,129 |
平成13年 | 40,810 | 9,638 |
平成14年 | 39,079 | 9,328 |
平成15年 | 33,285 | 8,059 |
平成16年 | 30,348 | 7,604 |
明治時代からのマッチ産業を振り返って見ると、創業当初は全くの新製品であり、軸木を手で並べながらマッチを作っていた。 工業が存在していなかった時代に、マッチ製造業を確立していった先人達の苦労は筆舌に尽くせないものがあったと思う。通常、 新製品を開発しても販売開拓に苦労するものであるが、当時主生産国のスウェーデンやアメリカから最も遠い中国やアジアの市 場に注目し、華僑の手を借りて輸出に力を入れたことは極めて順当なことであり、遂に、日本が世界三大マッチ生産国の一つに 数えられるようになった。
マッチの製造が伸びれば他の製品と同様過度競争となり、その結果お互いに苦境に悩まされる。その上、マッチが国際的製品 なるが故に、世界的大資本の企業があらゆる手段を用いて独占化を図り、我が国のマッチ業界もその被害を受け、日本のマッチ は国際市場から締め出された。大正後半から昭和初期にかけて、先人達はこの苦境を、お互いに譲歩して適正規模の生産で乗り 切っている。
戦後の経営者は、マッチの消費拡大のために新しく広告マッチ市場を形成し、需要を伸ばして成功している。広告マッチが伸 びたのも製造業者や販売業者の努力もあったのであるが、最も大きい力は市場のニーズに合致したことにある。マッチの需要量 が減少した現在では、各マッチ製造業者は経営多角化で発展を遂げているのが現状である。今まで長い間消費者の要求に沿って きた業界であるから、今後も市場のニーズに沿った新たな企画を立て、社会のために活躍することが期待できる。