HOME > バーチャルミュージアム > マッチの歴史 > 戦後の廃墟から復興

戦後の廃墟から復興 - 昭和21〜30年(1946〜1955)

終戦とともに、自由主義経済になったといえども、生活必需品としてのマッチの生産を続けるために、しばらく生産・販売の統制を続けた。しかし、マッチ用原木、塩素酸カリ、赤りん、膠等の原材料の不足はどうにもならなかった。軸木用の原木として、白楊、やす(さわぐるみ)の代用として松材が使用されたのはこの頃である。松材は樹脂(松脂)が多く含まれているので、パラフィンが浸透しにくい。そこで原木を約40cmの長さに切断した後、熱水で煮沸してから軸木に加工した。それでもパラフィンの浸透が少ないので火登りの悪いマッチとなった。

パラフィンの入手困難で代用に鯨油が工場に配給されたこともあった。しかし、マッチ不足は深刻でそれに乗じた正規の販売ルートに乗らない「闇マッチ」が市場に現れた。闇マッチは闇市場から良質の原料を仕入れてマッチを造るので、正規のルートより高価であるが品質良好なマッチであった。

日本燐寸統制株式会社は、昭和21年(1946)9月に「統制会社令」の廃止にともない「日本燐寸産業株式会社」に改組して、引き続き原料供給、生産、販売を実施していた。しかし占領軍の集中排除の方針により、この会社も閉鎖機関になり解体されて、昭和22年(1947年)春、日本燐寸産業株式会社は調査・研究を業務とする「日本燐寸会議所」、原料・資材を取り扱う「神戸資材株式会社」、マッチの販売を行う「三晃物産株式会社」、マッチの製造を実施する「日燐興業株式会社」に分割された。この時マッチ業界組織の中心である日本燐寸会議所は神戸市中央区北長狭通に本拠を置いた。

終戦直後は品不足で、あらゆる商品は造れば売れる時代であった。マッチも例外でなく、急速に生産力が回復した。終戦の年、昭和20年ではわずかに99,301マッチトンの生産が、23年には236,219マッチトンとなり、量的には充足されたが、原料粗悪からくる品質不良のマッチで消費者の不満が高まった。正規のルートのマッチには悪質な原材料を使用し、物品税が課せられるとともに、公定価格で売値が縛られているので止むを得ないところがある。昭和23年、主婦が中心に不良マッチ追放運動が起こり、これが契機となって主婦連合会が誕生した。

公定価格と物品税の変遷は次の通り。

(昭和) 公定価格
(並型1個)
物品税
(1,000本に付き)
13年(1938年) 1銭2厘 5銭
15年(1940年) 4銭/3個
17年(1942年) 2銭 10銭
18年(1943年) 3銭 15銭
19年(1944年)2月 4銭 25銭
19年(1944年)6月 5銭
20年(1945年) 15銭
21年(1946年) 30銭
22年(1947年)4月 41銭 1円50銭
22年(1947年)7月 75銭
22年(1947年)9月 1円10銭
22年(1947年)12月 1円23銭 3円
23年(1948年)7月 1円50銭 6円
23年(1948年)9月 2円10銭
24年(1949年)7月 公定価格廃止
25年(1950年)1月 2円
26年(1951年)1月 1円
49年(1974年) 物品税撤廃
マッチ箱10ヶ包みに貼られた調整証紙マッチ箱10ヶ包みに貼られた調整証紙

昭和23年(1948)9月マッチ配給統制規則が撤廃となり、販売は自由となったが、まだ、公定価格が残っていたので、正規ルートの三晃物産のマッチに対しては松材の軸を使用した従来の粗悪品を充て、白楊材の軸と闇ルートの良質の薬品を使用した良質のマッチで新規販売店に売り込みを図ったので、流通経路は大きく乱れた。更に物品税の脱税と公定価格を無視した「闇マッチ」を製造するものも多く出現。工場も各地で設立され、昭和25年(1950)の統計では日本全国でその数は合計158工場となった。

昭和24年に日本燐寸会議所は「社団法人日本燐寸工業会」に改組、業界の基本方針の策定、マッチの調査・研究、および業界の親睦・発展を方針とした。

昭和25年、朝鮮戦争が勃発し、経済界は特需景気で潤った所もあったが、中小企業はその恩典には浴していない。特に、繊維雑貨関係は深刻な不況に見舞われた。政治的にも大きな影響力を持つ繊維業界は政府・衆参両議員に働きかけ、昭和27年(1952)「特定中小企業の安定に関する臨時措置法」の成立をみた。

マッチ業界は過度競争による安値と乱売合戦で深刻な状態になっていたので、社団法人日本燐寸工業会は同法の成立を待って、直ちに調整組合を設立すべく、調整規定の原案作成に取りかかった。同法は一種のカルテル行為に属するので、戦後自由経済に逆行するところもあるから、学会やジャーナリズムの批判をも考慮して、利益追求の攻撃的性格ではなしに、現在の不況による共倒れを防ぐ防御的な方針で立案し、昭和27年7月27日に「日本燐寸調整組合」を設立した。同組合の理事長には事務局の永木広次が就任した。

この調整事業が各種業界の中でも例外的に成功したのは、上記の方針によるとともに、生産の基準数量策定に当たっても各事業者にはそれぞれ言い分があって、なかなかまとまらないのが普通であるが、不況脱出のために大企業が割当を譲歩して、何とか業界がまとまるように全員一致して努力した結果である。幸いにも、マッチには物品税が課せられていたので、これと組み合わせて調整証紙を作成し順調に事業が進められた。

調整組合の設立によって、業界には団結の機運が生じ、当時需要が次第に多くなってきた広告用マッチの価格が東京市場に左右されるのに鑑み、昭和28年(1953)3月「広告燐寸東京向出荷協同組合」が設立され、理事長に大西貞三が就任した。その結果、東京向け共同出荷が可能となり価格も安定方向に向かった。昭和28年、日本工業規格(JIS)「安全マッチ」が制定され、戦後の不良マッチは姿を消し、品質が飛躍的に上昇した。同30年にはJIS表示許可工場が全国で27工場に達した。