マッチの歴史
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この時代は、いざなぎ景気と引き続き提唱された田中角栄の日本列島改造論で表現されるように、経済が大きく進展した時代である。
社団法人日本燐寸工業会、日本燐寸工業組合および日本燐寸協同組合の従来の事務局(神戸市中央区北長狭通)が手狭になり、神戸市長田区浪松町に新しい事務所を建築、41年(1966)7月に完成した。(4階建て、延べ約660坪)
昭和30年(1955)までのマッチの需要は並型マッチと家庭小型マッチが中心であったが、42年頃から広告マッチを中心に需要を大きく伸ばしてきた。広告マッチは明治時代にも存在していたが、家庭用マッチ(有標マッチ)に比べると数量も少なく影のうすい存在であった。昭和の初期に大規模のマッチ会社がスウェーデンマッチに吸収されて大同燐寸株式会社となった時、大同は家庭用マッチが中心であったのに対し、スウェーデン系以外の中小のマッチ会社は、広告マッチに力を入れていたといわれている。しかし、取扱い数量は少なかった。その頃は、広告マッチは商標を貼らない無地の箱いわゆる無標マッチとして出荷され、各地の広告マッチ取扱い店が広告商標を印刷し、家庭内職で商標を貼らして需要者に供給していた。昭和30年頃からマッチの小箱が紙製となり、広告商標を貼らずに直接側箱の紙に印刷するようになり、当初は広告マッチ取扱い店でシートに印刷してマッチ工場に供給することが多かったが、次第にマッチ工場に多色刷りの印刷機を設置し、印刷することが多くなってきた。
昭和49年(1974)11月には、清水誠がマッチを製造してから100年になるのを記念して「マッチ100年記念式典」が盛大に催された。
この時期が戦後もっとも多くマッチを生産した時代であり、価格も安定していた。昭和50年(1975)の昭和30年に対する用途別出荷量は、家庭用マッチは35%減少したのに対し、広告用マッチは3.5倍と大幅に増加し、マッチ全体で57%も需要を伸ばしている。自動燐寸製造機台数も増加し、業界全体で71台にもなった。需要量が増えるに従い合理化のために、数社が共同して生産をするようになった。昭和40年以降設立された協同組合を列挙すると次の通り。
昭和31年(1956)には中箱用の紙を製造するロールカッターを社団法人日本燐寸工業会機械研究所で改良設計・製造して、広告燐寸協同組合(広告燐寸東京向出荷協同組合改組)に設置稼動し、全国のマッチ製造業者にマッチ中箱用紙を供給した。
機械研究所も昭和30~50年には、軸外し機、自動軸込機、新型白軸折取機、太軸選別機、インプル機、原木皮剥機、頭薬ミキサー、廃水処理装置等を開発・製造して、マッチ製造の合理化に貢献した。
その他、各地の機械メーカーで、紙ダース包装機、家庭型マッチ箱貼箱詰機、三倍型マッチ箱貼箱詰機、三角型マッチ箱詰機、シュリンク包装機等を開発普及したのもこの時期である。
昭和31年には軸木の共同生産を目的とした日本燐寸軸木用材協同組合(理事長大西貞三)および、手形割引、ストック融資、原材料購入、機械の販売等の共同事業を目的とした日本燐寸協同組合(理事長永木広次)を設立している。
昭和32年(1957)には「中小企業団体の組織に関する法律」に基づいて、日本燐寸調整組合が「日本燐寸工業組合」に改組された。また昭和38年(1963)には「中小企業近代化促進法」が施行され、マッチ製造の近代化が促進された。
昭和21年から30年にいたるマッチの生産量および輸出量は次の通り。
組合名 | 設立 (昭和年・月) |
組合員数 (社) |
共栄マッチ協同組合 | 40・7 | 4 |
白浜燐寸工業協同組合 | 41・3 | 12 |
宏和燐寸協同組合 | 41・11 | 4 |
姫路東燐寸工業協同組合 | 42・5 | 3 |
東海マッチ協同組合 | 42・6 | 8 |
明神マッチ協業組合 | 42・9 | 10 |
英和マッチ協同組合 | 43・8 | 5 |
日本ブックマッチ協業組合 | 43・9 | 4 |
セントラルマッチ協同組合 | 43・10 | 11 |
姫路燐寸工業協同組合 | 44・7 | 3 |
瀬戸内燐寸協同組合 | 45・4 | 3 |
太平マッチ協同組合 | 46・12 | 4 |
パイオニアマッチ協同組合 | 49・6 | 6 |
三宝燐寸協同組合 | 53・6 | 4 |
因みに、昭和30年から50年までのマッチ型別出荷量は次の通り。(出所:日本燐寸工業組合)
昭和 (年) |
家庭用 (マッチトン) |
たばこ用 (マッチトン) |
広告用 (マッチトン) |
総 計 (マッチトン) |
---|---|---|---|---|
30 | 286,954 | - | 108,644 | 395,598 |
31 | 285,040 | - | 127,378 | 412,418 |
32 | 288,537 | - | 147,596 | 436,133 |
33 | 251,680 | - | 145,040 | 396,720 |
34 | 268,304 | - | 169,255 | 437,559 |
35 | 279,704 | - | 183,881 | 463,585 |
36 | 305,250 | - | 210,812 | 516,062 |
37 | 276,288 | - | 210,442 | 486,730 |
38 | 265,662 | - | 226,043 | 491,705 |
39 | 279,790 | - | 265,881 | 545,671 |
40 | 295,981 | 36,953 | 244,531 | 577,465 |
41 | 279,657 | 37,285 | 275,274 | 592,216 |
42 | 276,577 | 48,700 | 341,577 | 666,854 |
43 | 255,346 | 51,134 | 360,627 | 667,107 |
44 | 248,097 | 57,261 | 396,291 | 701,649 |
45 | 231,757 | 67,185 | 430,560 | 729,502 |
46 | 198,259 | 68,080 | 424,051 | 690,390 |
47 | 183,603 | 70,373 | 460,227 | 714,203 |
48 | 214,985 | 76,517 | 490,175 | 781,677 |
49 | 228,333 | 55,476 | 373,580 | 657,389 |
50 | 186,057 | 48,709 | 384,801 | 619,567 |
東京都江東区亀戸天神社境内に建てられていた清水誠の功績を称える紀功碑が、第2次世界大戦の東京爆撃で破壊され、失ったままの状態で放置されていた。昭和50年にマッチ創業100年記念事業の一環として、清水誠顕彰会の人々の努力により清水誠の紀功碑および顕彰碑として再建され、5月12日に除幕式を行った。