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第2次世界大戦に突入 - 昭和11〜20年(1936〜1945)

共販会社の商標共販会社の商標

昭和7年(1932)から生産統制に入ったが、当時マッチ業界の安定のために共販事業が必要と考えられ、昭和11年(1936)12月に日本燐寸共販株式会社が設立された。これは日本燐寸工業組合が統制事業の一環として組合員の製品を買上げ、共販会社に売り渡す仕組みである。その後、府県毎に地方販売店の問屋の結集による販売会社が設けられ、マッチ配給統制へとつながる。

昭和12年(1937)7月に支那事変(日中戦争)が始まると、各種生活用品の統制が始まり、マッチも次第に統制で厳しくなってきた。

昭和13年(1938)に入ってマッチに物品税が課せられた。これは支那事変特別法によるもので、軸木1,000本につき5銭であった。税金は共販会社で一括して支払うため徴税効率はよかった。この年、公定価格の制度ができ、マッチが最初の物品に指定され、並型マッチ10個包みが12銭の公定価格で市場にて販売された。

昭和15年(1940)には、商工省令で「マッチ配給統制規則」が公布され、マッチは配給品となった。この頃より木材・紙・膠・塩素酸カリ等の原材料の不足が目立ちはじめ、昭和16年(1941)には「マッチ配給統制規則」にもとづく生産命令がでたが、価格を抑えられているので損失がでて、補填のため補助金を受けたとの記録がある。欧州ではドイツが各国に浸入して戦乱が続いていたが、アジアでも日米関係が険悪となり打開の努力も空しく、この年12月8日、日本の空軍が真珠湾を攻撃して、第2次世界大戦に突入した。

昭和17年(1942)日本燐寸工業組合、日本燐寸共販株式会社、東・西日本軸木工業組合およびその聯合会を統括する「日本燐寸統制株式会社」が設立され、原材料、生産、販売の凡てが統制会社の指揮下に入った。当時、政府は重要産業への労務の充足が最優先の課題であったので、「中小商工業者の整理統合および職業転換促進」の方針を打ち出した。マッチ業界も、この方針に沿って規模の小さい工場が整理され、中堅企業に集約されていった。既に原材料不足、労働者不足の状態で生産持続が困難な状態であったので、機械類の買上げや給付金支給等で小規模工場の廃業は順調に進められた。戦局が進むにつれて、原材料の調達、輸送も困難になり、徴兵や軍需産業への徴用で労働力は不足、生産は停滞、生活必需品としてのマッチは不足を来たし、次第に貴重品となった。

昭和元年から20年にいたるマッチの生産量および輸出は次の通り。

昭和(年) 総生産量
(マッチトン)
内・輸出量
(マッチトン)
481,746 243,900
2 533,457 315,822
3 389,433 260,130
4 432,154 212,505
5 426,790 179,127
6 404,658 150,945
7 396,011 147,405
8 473,637 226,577
9 501,986 255,645
10 526,701 284,773
11 495,639 210,944
12 393,984 141,164
13 442,102 195,813
14 505,867 271,462
15 398,912 130,861
16 380,282 111,429
17 323,677 74,918
18 269,308 69,528
19 210,727 26,628
20 119,310 4,737


(小数点以下四捨五入)

出所:昭和元年「マッチ工業統計総覧」
昭和2~20年の輸出量「燐寸要覧」
昭和2年の総生産量国内向けを推定して輸出量に加算
昭和3・4年総生産量「マッチ工業統計総覧」
昭和5~20年の総生産量「燐寸要覧」

昭和20年(1945)8月、日本がポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えた。この戦争によるマッチ工場の罹災は大きく、神戸市内は数度の爆撃で廃墟となり、マッチ工場は全滅。明石、姫路、静岡、岡山などの主力工場も大きな被害を受けた。


戦時色彩の強いマッチ商標
戦時色彩の強いマッチ商標