マッチの黄金時代 - 明治39〜大正4年(1906〜1915)

明治39年・40年(1906-1907)になると燐寸業の合同問題が再燃した。過度競争の弊害を避けるには、大合同による一種のトラスト組織による方法しかないとの見地から、幾度かの会議を重ねていった。38年に提案された主旨は、
・およそ金500万円以上の日本燐寸合同会社を設立すること。
・政府より製造販売の特権を得ること。
・右に対し政府へ相当の納金をなすこと。
であったが、39年に至り瀧川儀作、播磨喜三郎等の有力者が反対の立場を表明したので、結局政府も議会に法案を提案するところまで進まず不成立となった。これは輸出の実権は華僑にあって、彼らとの取引関係、各企業の商標権や営業権の買上げ等の複雑な問題に遠因がある。
しかし、明治40年には大合同は成立しなかたものの、マッチ製造の有力者直木政之介と神戸のマッチ創業者の本多義知が三井物産合名会社と提携して、日本燐寸製造株式会社を設立したことは、合同による体力向上を必要とする業界の進む道を暗示している。

明治40年当時の全国都道府県別マッチ製造業者数および工場数は次の通り。(出所:燐寸年史)

府県名 業者数 工場数 府県名 業者数 工場数 府県名 業者数 工場数
兵庫 46 66 徳島 2 2 福岡 1 1
大阪 38 53 愛媛 2 2 京都 1 1
愛知 32 39 長野 2 2 千葉 1 1
東京 16 16 熊本 2 2 栃木 1 1
静岡 12 12 香川 2 2 山梨 1 1
広島 10 10 高知 2 2 岐阜 1 1
新潟 8 8 神奈川 1 1 福島 1 1
岡山 6 6 茨城 1 1 島根 1 1
奈良 1 1 鹿児島 1 1      
和歌山 3 3 滋賀 1 1 北海道 1 1
富山 3 3 宮城 1 1      
三重 3 3 岩手 1 1 総計 209 251
話題の商標「赤の大元帥」話題の商標「赤の大元帥」

明治31年(1898)にマッチ商標の同好会の集まりがあったが、明治41年頃から燐票蒐集同好会である日本燐枝錦集会(りんしきんしゅうかい)が盛況で、日清戦争の頃「大元帥(だいげんすい)」商標が登録されたが大元帥・菊の紋章は天皇を象徴し不敬になるとの理由で発売禁止になり話題を呼び、後にこの商標に高値がついた。

また、海外でも日本のマッチ商標がもてはやされ、海外取引に古商標を景品として外国に送ることも多かった。
マッチの輸出が多いのも日本の労賃が安かったためで、明治43年頃の主要国の平均1日の工賃を比較すると、

 
日本 0.60円 0.25円
ドイツ 1.65円 0.90円
英国 2.10円 1.05円
米国 6.65円 4.15円

世界的に見るとマッチ工場は中小企業であり、中小の工場が多い。当時の調査によると各国のマッチ工場の数は、

国名 工場数   国名 工場数
アメリカ 41   ロシア 123
イギリス 12   スウェーデン 24
フランス 8   イタリー 40
ドイツ 61   オーストリア 73

明治時代のマッチの生産量および輸出量は「マッチ工業統計総覧」によれば次頁の通り。
(出所:マッチ工業統計総覧)[小数点以下四捨五入]

明治
(年)
総生産量
(マッチトン)
内輸出量
(マッチトン)
明治
(年)
総生産量
(マッチトン)
内輸出量
(マッチトン)
16   195 31 444,526 441,567
17   194 32 512,955 392,563
18   3,768 33 427,096 386,360
19   24,367 34 658,026 499,812
20   67,686 35 548,010 545,817
21   67,048 36 647,855 572,577
22 203,293 104,507 37 706,029 665,813
23 250,797 134,482 38 776,859 754,121
24 256,820 160,599 39 1,096,046 772,250
25 522,126 184,841 40 1,142,515 671,442
26 380,907 270,826 41 787,954 677,479
27 374,429 276,860 42 999,441 828,142
28 424,503 338,281 43 763,776 998,944
29 359,597 502,672 44 878,967 748,906
30 480,779 390,763 45 1,056,905 897,438
還我山河の商標還我山河の商標

この表から分かるように、明治22年~45年(1889~1912)のマッチ生産量のうち、78.5%は輸出されていた。
中国では明治45年に革命が起きて清朝が倒れ、新しく孫文や袁世凱による新政権ができたが、この前後の中国向けマッチの商標には革命を謳歌する商標が多い。左記の商標は「我に山河を返還せよ」という意味で、龍は清の皇帝を意味し、山河は地球で中国の国土、軍人は革命軍を表している。

大正3年(1914)に第1次世界大戦が勃発した。
この戦場は主として欧州であって、日本は日英同盟により、参戦してドイツが中国で租借していた青島を占領した。マッチ業界は大戦中はかってない程の好景気を迎えた。それは欧州各国が戦時体制に入り、マッチの生産がほとんど中止となり、日本製品がインド、アフリカ、欧州にまで輸出が伸びたためである。また、塩素酸カリ、赤りん、黄りんや包装用亜鉛板等のマッチ原料の欧州からの輸入が減って一時品不足の状態となったが、米国品等で苦境を乗り越えた。塩素酸カリは大正元年に始めて国産品がでたが、輸入が困難になると国内の製造が飛躍的に伸びて需要に応じた。