マッチの進展時代 - 明治29〜38年(1896〜1905)

尾張印の商標尾張印の商標

明治28年(1895)に第4回内国勧業博覧会にて、マッチ製造業者4社が安全マッチを出品し、それぞれ賞を得ている。なかでも播磨幸七の出品したマッチが有功1等賞を獲得した。その理由は、同社のマッチがインプル軸(炭化して燃えかすが落ちないようにした軸)を使用したことに由来する。当時から、優秀なマッチにはインプル軸が採用されていたことの証である。

明治29年(1896)に、直木マッチは三井物産と提携して初めてシンガポールに直輸出した。これまでのマッチはほとんどが華商の手により輸出され、一部インド商人の手で輸出されていた。海外取引きに重点を置いている三井物産は、当時重要輸出品であったマッチに力を入れ出した。明治から昭和にかけて三井物産名義の登録商標は全部で257点に達し、そのほとんどが輸出向けである。

明治29年に大阪府の茨木で水害が起こり、当局より罹災者救済のため、マッチ会社に就業斡旋を依頼され、内職の箱貼りを世話するとともに、工場には公益社が200名を引受けたのを始め、計6社のマッチ工場が協力した。
良燧社を設立した泉田文四郎逝去に伴い、明治30年(1897)に瀧川辨三が良燧社の三工場と一切の権利を12万円で買収した。当時3工場の土地・建物や機械設備の価値は7万円と推定されていた。良燧社の代表的な商標が尾長猿であったので、世人は尾長印マッチ商標5万円と喧伝した。
尾長印マッチが中国市場でよく売れていたので、それだけの値打ちがあったわけである。
尾長印マッチの全盛時代には30種以上の模倣商標が出回っていたという。

マッチの始祖・清水誠氏は明治21年(1888)に新燧社を閉鎖して、金沢に引退していたが、マッチ製造機の研究を続け29年に摺附木軸排列機を考案し、更に工夫を加えて30年に新排列機の特許を得ている。マッチの中心が関西に移ったので、清水は30年に大阪に出てマッチ工場・旭燧(きょくすい)館の設立を申請して再挙を図ったが、軌道に乗る前に病に倒れ、32年(1899)に大阪の病院で逝去した。享年55才。墓は郷里金沢市の玉泉寺にある。彼の功績に対し大正5年(1916)従5位を追贈された。

明治31年(1898)に商標の同好者が集まって東京で第1回燐票会が開催された。国産マッチが出現してから20年になり、同好者が増えてきた。集める商標は有標でしかも小箱に貼られたものが主体であるので、集める人も大層苦労したようである。当時で有標の数は数千に達していたという。珍奇なマッチ商標は1枚3~5円の高値を呼び世人を驚かした。(その時代マッチは1箱2厘〔0.002円〕で売られていた)

明治32年当時、神戸市の主要なマッチ工場の規模は次の通り。(出所:燐寸年史)

工場名 (経営者) 生産能力(年間)
瀧川工場 (瀧川辨三) 36万マッチトン
良燧合資会社 (瀧川辨三) 24万マッチトン
鳴行社 (播磨幸七) 18万マッチトン
奨拡(しょうかく)社 (直木政之介) 16万マッチトン
明治社 (本多義知) 14万マッチトン
開栄株式会社 (沢田清兵衛) 14万マッチトン
瀧川合名会社 (瀧川辨三) 9千マッチトン
舞龍印の商標舞龍印の商標

これらの主要工場の生産設備は、マッチ工場としては大きい規模であったことが推察できる。

明治33年(1900)に大阪の公益社の井上貞治郎は極端な細軸(1.5mm軸)で小さな頭薬をつけ、1箱に通常の倍の120本に近いマッチを詰めて売り出した。これは中国市場の地盤回復を狙っての商策であり、話題になった。左の「舞龍」は細軸マッチに貼付した代表的な商標である。

明治34年(1901)頃からフィリピンや中国でマッチに対する高率の輸入関税が課せられる動きがあり、課税前の見越し輸入や課税後は輸入激減で、慌ただしい動きがあった。
また、この頃からアジア各国でマッチ工場の建設が起こり、日本から原木、軸木、小箱の素地などの輸出が増えている。
当時、大阪燐寸同業組合が調査したマッチ工場で働く工員の賃金(日給)の推移は次の通り。

【平均賃金の推移(出所:燐寸年史)】

明治(年) 男工(銭) 女工(銭)
20 24.00 18.00
21 25.50 19.50
22 27.00 21.00
23 28.50 22.50
24 30.00 24.00
25 33.00 25.50
26 34.50 27.00
27 36.00 28.50
28 37.50 30.00
29 39.00 31.50
30 40.00 33.00
31 42.00 34.50
32 45.00 36.00
33 48.00 37.50
34 51.00 39.00
戦意昂揚の商標戦意昂揚の商標

明治時代は国力が充実するに従い、賃金も上昇していたことがうかがえる。

明治25年以来、商標登録申請に対し、類似商標の登録を防ぐために、農商務省特許局と連絡をとりながら大阪兵庫燐寸同業組合で商標調査を実施することになっていた。しかし、組合における商標調査が煩雑で月日がかかりすぎるので、答申が遅れてしばしば当局より注意を受けていた。32年に至り商標調査の諮問の件は中止となった。その後も商標問題が生ずるので、明治36年(1903)に再度商標調査の諮問を実施するように陳情しているが、許可されなかった。

明治37年(1904)には日露戦争が勃発したが、マッチの生産にはほとんど影響がなく順調に伸びていった。この時は戦意高揚に関する商標が数多く市場にでた。特に特筆すべき事件は明治38年(1905)アメリカのダイヤモンドマッチ会社から日本の政府に対し、日本の政府公債700万円を引き受ける用意がある旨の申出があった。

マッチ工場に置ける箱詰作業マッチ工場に置ける箱詰作業

その引換え条件は、

1.ダイヤモンド社に日本のマッチ専売権を与えること。
2.または、日本政府がダイヤモンド社の製造特許権を買入ること。

日本政府としては、日露戦争の最中で7,000万円の戦費調達を行いたいのは山々であるが、第1の提案は影響が大きいので、マッチ産業の近代化のために第2の案で検討することになり、業界に諮問した。マッチ業界は販売数量は増えているが、過度競争による利益率の減少の折から興味を示し、業界で大合同をして特許会社を設立し、政府から専売権や特許権を賦与してもらう案等を考えて、いろいろ議論をされたがまとまらずに流れてしまった。