マッチコラム
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明治天皇
明治天皇は、慶応4(1868)年9月8日、御年14歳(数え16歳)で第122代の天皇に即位され、年号を明治と改元。そして、明治45(1912)年7月30日、御年59歳(数え61歳)で崩御されてから、ちょうど100年を迎える今年、明治神宮において明治天皇百年祭が催された。
大正100年にもあたる今年にちなんでマッチラベル商標にも明治天皇を意図したものがいくつかある。そこで、燐趣界(マッチラベル収集の世界)において幻の大元帥票といわれる大珍品を紹介するとともに謎に満ちた諸説への考察を試みたいと思う。
神戸の日本燐寸工業会所蔵の「天下一品」と称した明治期の逸品、珍品票ばかりを張込んだ折本燐票帳の中に燐票大家、福山碧翠翁から古屋蘭渓に託された並型(寸二縦型)の「赤の大元帥」と「黒の大元帥」を拝むことができる。
ちなみに大元帥の称号は、日本では明治4(1871)年に軍人の最高位の階級として定められたものの在官者が無いまま明治6(1873)年5月8日に廃止されてしまう。しかし、明治22(1889)年、大日本帝国憲法下において天皇が統帥権を持ち、陸海軍の最高指揮官である大元帥を名のることとなった。
大元帥商標
大元帥票は、皇室の菊花紋章である十六八重表菊(菊の御紋)の天皇旗と旭日旗を交叉旗にして、その上に大元帥の三文字を大きく白抜きにして描いた木版単色刷りの国威発揚的図版である。
日清戦争の頃、明治26年もしくは明治27年に商標登録を受けたが、その図版内容が明治天皇を指すところから不敬罪に当たるとして登録却下のうえ、売り出す寸前に発売禁止になったいわく付きの商標。であるならば、この世に流布するハズがないのにどういうわけか現存し、大正6(1917)年頃には、赤刷りが4枚、黒刷りが14、15枚あるという。
そのために愛燐家の誰もが一目見たがり、願わくは自身のコレクションの一枚に加えたいと念じ、各地の雑貨屋を徘徊、血眼になって探し求めるがなかなか入手できないことから愛燐家の間では垂涎の燐票となってしまった経緯がある。
ただ、果たしてこの通説が正しい事実かどうかは今一度検証の余地がありそうである。意外と昔の御仁の伝言にはほら吹きや記憶違いが見受けられることが多々ある。
マッチラベルも歴とした商標のひとつ、明治32年施行の商標法においても菊花御紋章と同一(花弁の数が16弁)、もしくは類似の図形(花弁の数が12以上24以下のもの)を有するものは商標の登録を受くることを得ず、とある。そこで、この大元帥票はどうかと数えてみると彫りは雑ではあるが16弁で描かれている。加えて、当時の明治天皇を指す「大元帥」の字も彫られたとあっては発売禁止も当然といえる。
しかし、何故に発売が即中止されたにもかかわらず買いに探しまわるほど市井に出ているのかが謎である。いつの世にもあることで密かに刷り出しを抜きとったり、既にマッチ箱に貼り終えたモノはいち早く出荷してしまった推理も考えられる。この疑問については、燐趣同好会機関誌、雑誌、文献類をくまなく調べた結果、実際に売りに出されていたという多くの愛燐家の証言を確かめることで、埋もれていた事実が浮かび上がるかもしれない。
数多くの記述の中で、趣味の燐票雑誌『錦』内において福山碧翠翁が語る「日本燐枝錦集会25周年回顧座談会」連載の中に大元帥が市井に販売されていた事実を語る貴重な回顧談が綴られている。
『錦』40号(昭和4年12月発行)では、明治32年頃、「大元帥」のマッチを貰いに行こうと販売元の乾物問屋、中村商店(大阪屋の中村茂八、通称、大茂)へ寄ったところ、4、5年前に売ったが今は在庫なし、台帳を調べたところ埼玉の熊谷方面へ売った記録ありとのこと。
『錦』43号(昭和5年3月発行)には、芝の小間物商、平田某が埼玉方面へ大元帥を探しに行った帰りに乗客から偶然、赤の大元帥を貰い受け、第3回の錦集会(明治37年4月開催)へ出品し、5円の高札までに至ったという談話。
『錦』45号(昭和5年5月発行)においては、上野、宇都宮間の列車乗務車掌の後藤某が常日頃、列車の中でよく拾っていたマッチの中にも大元帥があり、福山碧翠翁はそれを喜び勇んで貰って帰った、という談話が掲載されている。
また、『錦』36号(昭和4年8月発行)での談話は意味深で、俳諧師でもある愛燐家の河野歩舟(素園)が稲荷町(現在の台東区東上野三丁目)の荒物屋で鼠2匹が描かれた赤ベタ刷りのマッチラベルの下に貼られていた赤の大元帥を12個まとめて1銭5厘で買ってしまった、というエピソードもある。
当時の東京でのマッチ収集は、上野駅構内や上野公園のベンチの下など地方からの人が集まる場所や汽車の車中の椅子の下を探しまわっていたようである。さらに今とは違い、古い燐寸に加えて、次々と新たな燐寸柄が製造販売されていた時代、愛燐家は市井の荒物屋、小間物屋、煙草屋を一軒、一軒、探し歩いて燐票蒐集に励んでいたのである。
以上のことから察するに大元帥のマッチが販売された時期は日清戦争あたりの明治27年前後のようである。当時の愛燐家のなかには水谷幻花のように日露戦争当時のものであるという記述も見受けられるが、それだと福山碧翠翁が明治32年頃に既に大元帥の存在を承知していることから、それは誤りであろう。
次に、登録商標されたのかどうかについては、当時の農商務省特許局発行の定期刊行物『商標公報』をくまなく調べてみたが大元帥の商標は登録されていない。そもそも商標の類で申請後に晴れて登録を果たしたのに後日、何らかの理由で登録却下されてしまったとしても一度は『商標公報』に掲載されるものだが大元帥にはまったくその痕跡が見られないことから察すると実際は商標登録されずに、出願の段階で商標法規約に反するものとして登録拒否されたのではないかと考えた方が自然ではないだろうか。単純に考えて、当時、まだ審査に慣れていない役人だとしても菊花紋章、大元帥の図版を見て畏れ多いことと思わぬハズはないだろう。(日本での最初の商標法は、明治17(1884)年10月1日に「商標条例」が施行)
大元帥票の真贋
大元帥票の評価を上げている最大の要因は明治中期の古票に当たるラベルである上に即時発売禁止となるまでにわずかに出荷されたことによるものと思われる。天皇を象徴する図版をもって発売禁止となれば燐票を集める者にとっては当然、欲しがる一品となり、需要と供給の異常なアンバランスから燐趣界断トツの高値が付いて今に至っている。
過去の記述では一様に赤の大元帥が4枚、黒の大元帥が14、15枚と書かれているが、この数は愛燐家が大切に所蔵しているであろうと思われる推測の枚数であって、その存在に気がついていない蒐集家もいるであろうし、興味のない者がたまたま持ち合わせているケースもあり得るし、燐票張込み帳のどこかにひっそりと眠ったまま現存していることも大いにあるだろう。その意味では、まだ見知らぬ所蔵者が何処かに控えているかもしれない。逆に運悪く、天災、人災で焼失してしまったことも考えられる。
筆者が現今において知る限りでは、まず真正間違いなしと確信する大元帥票は、根岸武香翁、福山碧翠翁から引き継いだ古屋蘭渓編纂の「天下一品」折本帳の最初の頁に「古屋所蔵」と彫られた木版台紙上に張込まれている並型の赤の大元帥と黒の大元帥が掲げられる。ただし、筆者として気になるのは赤と黒の大元帥セット以外に、紙片の一部を赤燐で汚したような赤の大元帥がもう一枚張込まれている。この一枚は明らかに刷りが雑で、彫り具合も違っており、さらに同じ赤刷りでも色が微妙に違っている。そのことが贋物ではないかという疑念を抱かせる。持ち主である古屋蘭渓翁が栄えある「天下一品」の燐票帳を汚すことにもなる贋物と知っていてわざと同列に貼り込むであろうか。愛燐家の神経としては真正の珍品、逸品票と併せて張込むことは大いに抵抗があるが、贋物だとしても既に100年以上を経た旧き良き物ということであろうか。不可解な実体である。
当時であってもなかなか見つからない、入手できない大元帥ゆえに骨董的価値は上がるばかりで、とうとう悪意を持った贋物票が世に出たようでひどいモノになると青の大元帥という戯れ票まで出る始末。福山碧翠翁も一時、金目当ての贋票を世に出す悪徳業者撲滅のために贋票集めに没頭したというが途中でキリがないと諦めたそうである。明らかな贋物見本が残されていれば後の愛燐家にとっては助かるのだが、福山碧翠翁が遺してくれたモノは、贋票をつかまされないように、また、入手できずに悔しがっている愛燐家会員のために「禁厳売 参考品 日本燐枝錦集会」の墨刷りを加えた「赤の大元帥」の参考燐票で、希望者へ無料配付した。(昭和5年6月『錦』46号)
次なる真正大元帥は、故、吉澤貞一氏が所蔵されていた大元帥の赤、黒揃っての親子票(並型、大判ダース票揃い)がある。大判ダース票とは、小箱マッチを10個、ないしは12個を一包みに包装した上に何の絵柄のマッチかわかるようにと貼付けた上貼票のこと。氏は、2006(平成18)年度のギネスブックにも載った世界一のマッチラベル・コレクターである。大正14(1925)年から蒐集を始め、平成6(1994)年12月31日に逝去(享年90歳)されるまでに74万3512枚を集めまくった。しかし、死後、所蔵されていた大元帥票は何処へいったか所在不明である。
現状では、赤の大元帥は日本燐寸工業会に保管されている限りであるが、大小の黒の大元帥は筆者を含めて他の同好の士も所蔵しており、筆者なりに真贋照合をしたところ、わずかな紙の伸縮、刷りムラはあるものの、彫り具合は真正そのものに間違いはないと鑑定した。なお、赤刷り、黒刷りはまったく同じ構図ではあるが比べてみると微妙な違いが見受けられ、版木は別々に彫られているようである。
いまひとつ真贋を難しくしているのは、通常、木版刷りのマッチラベルの場合、大量のマッチ製造に対応するために版木は、寸分違わぬ同柄をいくつもの多面に彫り上げた。
とはいっても、一面ずつ人間の手で彫る職人技、正確には微妙にどこか彫りの違いがでるわけで多面の数だけ種類が生じることになる。さらに、大元帥票は単色刷りの上に図版自体もそれほど精細でないし、そんな要素も考えると真贋鑑定キリなしである。
次回、後編は気になる大元帥の評価額の検証と製造元の推理を試みてみる。
参考文献:
1)『錦』 大正9年11月 創刊号~昭和12年4月 第83号:日本燐枝錦集会の総帥、福山碧翠と亡き後を引き継いだ古屋蘭渓による趣味の燐票雑誌。
2)『燐友』 大正6年2月 創刊号~大正9年8月 第42号:亀山閃放編集による燐寸商標蒐集の機関誌。
3)『愛燐界』 大正14年8月 創刊号~昭和11年5月 第100号:大阪燐枝交友会主任の中尾佐太郎による燐票趣味機関誌。
4)『日本燐友』 昭和10年4月 創刊号~昭和13年4月 第25号:日本燐友会の白井吉太郎による燐票趣味機関誌。
5)『マッチ時報』 昭和53年11月 創刊号~平成22年11月 第377号:協同組合日本マッチラテラル発行のマッチ業界情報紙。
6)『想燐』 昭和31年11月 第21号~平成9年8月 第294号:想燐友の会の東塚弘による月刊マッチ趣味誌。
7)『JMCCニュース』 平成7年8月 第2号~平成21年7月 第167号:ジャパン・マッチ・コレクターズ・クラブの事務局、佐藤克己によるマッチ同好会報紙。
8)『燐票カタログ』 昭和4年9月 第2号:大阪燐枝好友会の近藤無がく編纂による燐票評価型録。
9)『ラベル新聞』 平成2年1月15日発行:ラベル印刷関係の業界新聞。
10)『燐寸商標史』 大正3年5月発行:著者、喜多清三による燐票研究書。
11)『商標公報』 明治21年1月 第1号~明治36年12月 第360号:農商務省特許局発行の登録商標記録刊行誌。
12)『発禁マッチ大元帥』 昭和62年12月10日発行:著者、三野輪幸節による私家版豆本。