マッチコラム
HOME > バーチャルミュージアム > マッチコラム > 神戸大学付属図書館「近代神戸の源流を訪ねて・鈴木商店とマッチ産業の盛衰」展覧会記
清々しい春の一日に神戸大学の社会科学系図書館(神戸市灘区)で催されている第2回目にあたる常設展を観てきた(2008年2月15日~6月20日迄開催)。当日は日本燐寸工業会の専務理事、中川氏と同職員の松本氏の運転でご案内をいただき、六甲台の急な坂を上り切り、神戸大学の正門に到着。この急勾配はさすがに自転車ではキツイようで駐車場は車にバイクばかり。構内に入ると緑の木々に囲まれたなか、新旧の校舎が広大な敷地に立ち並び、しばし圧倒されるが格調高い旧校舎を眺めると久しぶりに勉学の場という気分に浸れる。
展示品は、図書館所蔵のものを基本とし貴重な資料18点を中心として、くわえて鈴木商店の歩みと神戸のマッチ産業を分けて年表・パネルで構成されている。ただ、一見してマッチラベルなどの見栄えのいいカラフルな実物資料は少なく、研究発表に近い地味な感は否めないが、ある程度の知識が備わっている者にとっては明治から昭和初期までの神戸の産業、企業の有様が時代背景とともにコンパクトにまとめられており、わかりやすい展示となっている。
じっくり資料を眺め、年表、パネルを読み解いてみると今回の主眼が鈴木商店とマッチ産業の個々の列記だけではないことが浮かび上がってきて興味深い。鈴木商店、マッチ産業、そして神戸商高の三者は同じ神戸という以外に密接な関係で絡みあっているのである。
そこで儀作はマッチから手を引いてもらうよう金子に頼み込んだところ、二度にわたる儀作の業界安定化への必死の説得に応じ、「それでは君に任す。君のところと合併してくれ。」の一言で話はまとまり、瀧川燐寸は、鈴木の帝国燐寸直営をやめさせて吸収合併し、鈴木商店を大株主とした資本金400万円の「東洋燐寸株式会社」が誕生した。それ以来、金子は東洋燐寸には何等の干渉もせず、経営一切を儀作に一任した(横田健一著『日本のマッチ工業と瀧川儀作翁』より)。
頑固一徹、引くことを知らぬ金子の性分とは異にする一面、商業道徳を守った「武士に二言はない」的高潔さにマッチ業界は救われた。
ちなみに、大正7(1918)年、1月にも儀作の勢力の傘下とした「帝国燐寸株式会社」が設立されているが、鈴木商店が前に作った帝国燐寸とは別会社である。
付属図書館常設展
神戸大学は、明治35(1902)年に設立された官立神戸高等商業学校(神戸高商)を前身とし、平成14(2002)年には神戸大学100周年を迎えた歴史ある大学である。 この六甲台地区のキャンパス内を車で徐行すると旧校舎風の威厳のある社会科学系図書館に着き、階段を登ると大理石も使っての益々昔の時代にワープしてしまう内装。とてつもなく大きな絵画が受付の後に飾られ、そこを通り過ぎて当時の格調ある木製の椅子と机での図書閲覧室に通ずる一画のスペースを今回の神戸大学付属図書館主催の第2回常設展「近代神戸の源流を訪ねて・鈴木商店とマッチ産業の盛衰」展示コーナーとしている。総合商社の源流、鈴木商店
この名を聞いても平成の時代、若い人でピンとくる人は少ないのではないだろうか。「商店」の響きは今だと小さな店のようであり、昨今流行りのレトロ感で○○商店、○○商会、○○市場というわざとシャレっぽく古いネーミングにした会社もあるが、鈴木商店はこの四文字に絶対のプライドを持ち、最後まで鈴木株式会社とはしなかった誇りある店名であった(大正12(1923)年には、株式会社 鈴木商店となる)。 鈴木商店は、明治後期から大正期にわたり三井、三菱とならんで神戸に本社を持つ関西一の総合商社、砂糖、樟脳から身を立て鉄鋼から造船まであらゆる産業を起こし、果ては米の買い占め報道により焼き打ちにもあった会社、鈴木よねのもと大番頭、金子直吉の辣腕経営…そして昭和2年に金融恐慌の煽りを受け経営破綻、という栄枯盛衰の運命を背負ったような会社であったが、破綻後もその息吹き、精神は神戸高商出身等の卓越した人材によって今に引き継がれている。 姿かたちを変えて現在も続いている会社としては神戸製鋼、帝人、日商岩井、豊年製油、日本製粉、サッポロビール、日本化薬、商船三井、日本水産、三井東圧化学(株式会社省略)等々、枚挙にいとまがない。第一次世界大戦(欧州大戦)時には軍需景気のもと鈴木商店は巨大企業となり一時は60社以上の会社が傘下にあったくらいである。これらの推移が展示されている年表や関係資料(『鈴木商報』金子直吉著書など)からその凄さの一端が読み取れる。鈴木商店の歩み
展示された年表から鈴木商店の足跡をみると明治7(1874)年に鈴木岩治郎(初代)が居留地海岸通りで創業した洋糖輸入業を出発点とし、その後、明治23(1890)年には樟脳(防虫剤の用途や当時、新素材であったセルロイドの原料の一つで非常に需要があった)や薄荷(清涼香料や薬の原料として栽培)の取引を開始し、投機的な買い付けで大きな利益を上げた。
明治27(1894)年、岩治郎が病没後、妻の鈴木よねが店主となり意志を受け継ぎ、大番頭の金子直吉が支配人として自らの経営哲学のもと常に先頭に立ち大躍進を遂げていく。金子はさらなる超多角化志向の経営戦略に邁進し、樟脳、薄荷、砂糖、魚油、メリケン粉、鉄鋼、はては造船まで輸出入製造販売を手掛けていく。設立した会社は北港精糖、帝国麦酒、大里製粉所、日本製粉、播磨造船所、神戸製鋼所、帝国汽船、太陽曹達、新日本火災保険、帝国人造絹糸、豊年製油等々、鈴木商店の分身会社を金子は大正期に渡って作り上げていった。また、大正5(1916)年には「帝国燐寸株式会社」を創設してマッチにも乗り出し、業界は戦々恐々とした。
大正7(1918)年、米価高騰が続き全国で米騒動が広がるなか、神戸でも暴動が起き鈴木商店も米の買い占め新聞報道で大衆に疑惑を持たれ、本店等が焼き打ちに合い全焼する惨事に見舞われたが、この時、欧州大戦終結に際し、まだ混沌としていた欧州諸国に対しての輸出、買い付けで巨利を得て即座に復活、大正8、9年の年商は16億(今の額にすれば500倍として8000億)となり三井物産を抜いて日本の商業史上で最高の記録を打ち立てた(城山三郎著『鼠』より)。
しかし、金子ひとりによる独断経営は昭和2(1927)年に起こる金融恐慌により一気に破綻をきたし、企業金融を依存していた台湾銀行からも新規貸出停止を通告され、事は終われり、鈴木商店は4月に倒産した。
ちなみに鈴木商店倒産はスウェーデンのマッチ王クロイガー・コンツェルンの倒産とともに、世界三大倒産の一つに数えられている。