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神戸大学付属図書館「近代神戸の源流を訪ねて・鈴木商店とマッチ産業の盛衰」展覧会記

清々しい春の一日に神戸大学の社会科学系図書館(神戸市灘区)で催されている第2回目にあたる常設展を観てきた(2008年2月15日~6月20日迄開催)。当日は日本燐寸工業会の専務理事、中川氏と同職員の松本氏の運転でご案内をいただき、六甲台の急な坂を上り切り、神戸大学の正門に到着。この急勾配はさすがに自転車ではキツイようで駐車場は車にバイクばかり。構内に入ると緑の木々に囲まれたなか、新旧の校舎が広大な敷地に立ち並び、しばし圧倒されるが格調高い旧校舎を眺めると久しぶりに勉学の場という気分に浸れる。

付属図書館常設展

神戸大学は、明治35(1902)年に設立された官立神戸高等商業学校(神戸高商)を前身とし、平成14(2002)年には神戸大学100周年を迎えた歴史ある大学である。 この六甲台地区のキャンパス内を車で徐行すると旧校舎風の威厳のある社会科学系図書館に着き、階段を登ると大理石も使っての益々昔の時代にワープしてしまう内装。とてつもなく大きな絵画が受付の後に飾られ、そこを通り過ぎて当時の格調ある木製の椅子と机での図書閲覧室に通ずる一画のスペースを今回の神戸大学付属図書館主催の第2回常設展「近代神戸の源流を訪ねて・鈴木商店とマッチ産業の盛衰」展示コーナーとしている。
社会科学系図書館入口 社会科学系図書館入口:図書館2階に常設展示コーナーを開設し、同館が所蔵する各種の資料を企画のテーマのもと、公開展示されている。 図書館受付 図書館受付:2階正面には特大の絵画が飾ってあるが、作者は聞くのを忘れた。※人物を撮ってはいけないので写真はボカして表示。
展示品は、図書館所蔵のものを基本とし貴重な資料18点を中心として、くわえて鈴木商店の歩みと神戸のマッチ産業を分けて年表・パネルで構成されている。ただ、一見してマッチラベルなどの見栄えのいいカラフルな実物資料は少なく、研究発表に近い地味な感は否めないが、ある程度の知識が備わっている者にとっては明治から昭和初期までの神戸の産業、企業の有様が時代背景とともにコンパクトにまとめられており、わかりやすい展示となっている。 じっくり資料を眺め、年表、パネルを読み解いてみると今回の主眼が鈴木商店とマッチ産業の個々の列記だけではないことが浮かび上がってきて興味深い。鈴木商店、マッチ産業、そして神戸商高の三者は同じ神戸という以外に密接な関係で絡みあっているのである。
常設展タイトル 常設展タイトル:第2回目は、「鈴木商店とマッチ産業の盛衰」のテーマで数奇な運命をたどった鈴木商店と明治期の神戸に勃興したマッチ産業を取り上げている。

総合商社の源流、鈴木商店

この名を聞いても平成の時代、若い人でピンとくる人は少ないのではないだろうか。「商店」の響きは今だと小さな店のようであり、昨今流行りのレトロ感で○○商店、○○商会、○○市場というわざとシャレっぽく古いネーミングにした会社もあるが、鈴木商店はこの四文字に絶対のプライドを持ち、最後まで鈴木株式会社とはしなかった誇りある店名であった(大正12(1923)年には、株式会社 鈴木商店となる)。 鈴木商店は、明治後期から大正期にわたり三井、三菱とならんで神戸に本社を持つ関西一の総合商社、砂糖、樟脳から身を立て鉄鋼から造船まであらゆる産業を起こし、果ては米の買い占め報道により焼き打ちにもあった会社、鈴木よねのもと大番頭、金子直吉の辣腕経営…そして昭和2年に金融恐慌の煽りを受け経営破綻、という栄枯盛衰の運命を背負ったような会社であったが、破綻後もその息吹き、精神は神戸高商出身等の卓越した人材によって今に引き継がれている。 姿かたちを変えて現在も続いている会社としては神戸製鋼、帝人、日商岩井、豊年製油、日本製粉、サッポロビール、日本化薬、商船三井、日本水産、三井東圧化学(株式会社省略)等々、枚挙にいとまがない。第一次世界大戦(欧州大戦)時には軍需景気のもと鈴木商店は巨大企業となり一時は60社以上の会社が傘下にあったくらいである。これらの推移が展示されている年表や関係資料(『鈴木商報』金子直吉著書など)からその凄さの一端が読み取れる。

鈴木商店の歩み

鈴木商店本店鈴木商店本店:『英和商工人名録』に載っている大正5年頃写真。
展示された年表から鈴木商店の足跡をみると明治7(1874)年に鈴木岩治郎(初代)が居留地海岸通りで創業した洋糖輸入業を出発点とし、その後、明治23(1890)年には樟脳(防虫剤の用途や当時、新素材であったセルロイドの原料の一つで非常に需要があった)や薄荷(清涼香料や薬の原料として栽培)の取引を開始し、投機的な買い付けで大きな利益を上げた。 明治27(1894)年、岩治郎が病没後、妻の鈴木よねが店主となり意志を受け継ぎ、大番頭の金子直吉が支配人として自らの経営哲学のもと常に先頭に立ち大躍進を遂げていく。金子はさらなる超多角化志向の経営戦略に邁進し、樟脳、薄荷、砂糖、魚油、メリケン粉、鉄鋼、はては造船まで輸出入製造販売を手掛けていく。設立した会社は北港精糖、帝国麦酒、大里製粉所、日本製粉、播磨造船所、神戸製鋼所、帝国汽船、太陽曹達、新日本火災保険、帝国人造絹糸、豊年製油等々、鈴木商店の分身会社を金子は大正期に渡って作り上げていった。また、大正5(1916)年には「帝国燐寸株式会社」を創設してマッチにも乗り出し、業界は戦々恐々とした。 大正7(1918)年、米価高騰が続き全国で米騒動が広がるなか、神戸でも暴動が起き鈴木商店も米の買い占め新聞報道で大衆に疑惑を持たれ、本店等が焼き打ちに合い全焼する惨事に見舞われたが、この時、欧州大戦終結に際し、まだ混沌としていた欧州諸国に対しての輸出、買い付けで巨利を得て即座に復活、大正8、9年の年商は16億(今の額にすれば500倍として8000億)となり三井物産を抜いて日本の商業史上で最高の記録を打ち立てた(城山三郎著『鼠』より)。 しかし、金子ひとりによる独断経営は昭和2(1927)年に起こる金融恐慌により一気に破綻をきたし、企業金融を依存していた台湾銀行からも新規貸出停止を通告され、事は終われり、鈴木商店は4月に倒産した。 ちなみに鈴木商店倒産はスウェーデンのマッチ王クロイガー・コンツェルンの倒産とともに、世界三大倒産の一つに数えられている。
店主・鈴木よね 店主・鈴木よね:明治10(1877)年、鈴木岩治郎と結婚し、明治27(1894)年、岩治郎病没後は店主となり、金子と鈴木商店の経営にあたった。 支配人・金子直吉 支配人・金子直吉:明治19(1886)年、21歳の時、鈴木商店へ入店。以後、商魂たくましく鈴木商店を巨大な総合商社に築き上げる。政界にも強いパイプを持ち、特に政治家、後藤新平と親交を持ち、多くの専売権を得た。

神戸高商卒の高畑誠一

「金子直吉の鈴木商店」ともいえた金子のワンマン経営の会社であったが神戸高商卒の近代経営派社員達(金子は土佐派である)が鈴木商店の破綻後、再出発を図り前出の企業に育て上げている。 特に鈴木商店時代、神戸高商を首席で卒業(明治42(1909)年)、入社した高畑誠一はロンドン支店長としてヨーロッパ市場において投機的な買い付けで大活躍したが、破綻後は鈴木商店の子会社であった日本商業会社を「日商株式会社」(現 日商岩井)と改め、同社を日本屈指の総合商社に育て上げた。昭和32(1957)年には日本火災海上保険(現 日本興亜損害保険)の社長にも就任している。
ロンドン支店長・高畑誠一 ロンドン支店長・高畑誠一:明治42(1909)年、神戸高商を卒業後、鈴木商店入社。大正5(1916)年にはロンドン支店長に就任し、ヨーロッパでの商戦で大活躍をした。私的には日本におけるゴルフの普及に大きく貢献した。 神戸製鋼所本工場 神戸製鋼所本工場:明治38(1905)年、小林製鋼所を合名会社 鈴木商店が買収し、神戸製鋼所として創業。明治44(1911)年には鈴木商店から独立し、(株)神戸製鋼所として発足。現在は神戸製鋼として一大企業と成す。
鈴木商店の歩み(明治) 鈴木商店の歩み(明治):明治7(1874)年、神戸辰巳屋カネ辰鈴木商店設立から台湾専売局と樟脳油再製請負契約を締結するまでの個人企業時代。 鈴木商店の歩み(大正) 鈴木商店の歩み(大正):大正7(1918)年、鈴木商店が焼き打ちに合うが、第一次世界大戦終結後、疲弊した欧州諸国に対しての商戦で巨利を得る。しかし、昭和2(1927)に金融恐慌により鈴木商店が破綻し、金子の鈴木は終焉を迎える。 天下三分の書(大正6年) 天下三分の書(大正6年):金子がロンドン支店の高畑誠一宛に出した手紙の中で三井三菱と並んで「天下を三分する」ことが鈴木商店の理想であると記している。「三国志」にも通ずるが、日本海海戦時の東郷大将が発した「皇国の興廃此の一挙に在り」の一文を記していることからも金子の決意の現れが見てとれる。

金子直吉と瀧川儀作との確約

まだまだ金子直吉についての人物考察は尽きないが、金子とマッチ業界との関わりについて金子の人物像の一端を垣間見れる経緯を紹介する。 大正5(1916)年、9月に神戸でのマッチ業界の大御所、瀧川辨三のマッチ製造会社、清燧社と婿養子、瀧川(梶岡)儀作の経営する良燧社とが合同し、資本金200万円の「瀧川燐寸株式会社」が創設された。 そして先にも記したが、同年、金子も鈴木商店の新規拡大事業の一つとして、資本金100万円を投じて「帝国燐寸株式会社」を創設してマッチ業界に乗り出してきた。瀧川にとっては巨大な資本を持ち、政界にも深い繋がりのある辣腕強引の金子の存在が一大驚異となった。
マッチ関連所蔵資料 マッチ関連所蔵資料:マッチ産業関連の展示ケースには『神戸市工業概況』(燐寸工場作業風景写真)、マッチ工業労働者年齢別調査表、『燐寸商標史』などが紹介されている。 神戸のマッチ産業 神戸のマッチ産業:1827年、英国人ジョン・ウォーカーが摩擦マッチを発明してからの主な歴史が列記。「1845年、スウェーデンで安全マッチを発明」については、1855年が定説であるが…。
そこで儀作はマッチから手を引いてもらうよう金子に頼み込んだところ、二度にわたる儀作の業界安定化への必死の説得に応じ、「それでは君に任す。君のところと合併してくれ。」の一言で話はまとまり、瀧川燐寸は、鈴木の帝国燐寸直営をやめさせて吸収合併し、鈴木商店を大株主とした資本金400万円の「東洋燐寸株式会社」が誕生した。それ以来、金子は東洋燐寸には何等の干渉もせず、経営一切を儀作に一任した(横田健一著『日本のマッチ工業と瀧川儀作翁』より)。 頑固一徹、引くことを知らぬ金子の性分とは異にする一面、商業道徳を守った「武士に二言はない」的高潔さにマッチ業界は救われた。 ちなみに、大正7(1918)年、1月にも儀作の勢力の傘下とした「帝国燐寸株式会社」が設立されているが、鈴木商店が前に作った帝国燐寸とは別会社である。
マッチ年表(大正) マッチ年表(大正):鈴木商店の燐寸部が帝国燐寸として起こしていたが、瀧川儀作の説得により瀧川燐寸と合併、東洋燐寸が誕生する。 マッチ年表(昭和) マッチ年表(昭和):昭和2(1927)年よりスウェーデンによるマッチ・トラストが始まるが昭和7(1932)年に金融恐慌のため、スウェーデン・マッチが崩壊し、大同燐寸も経営破綻をきたす。

神戸のマッチ商標

今年で国産マッチが生産されて133年となるなか、年表、展示パネルでは明治から大正、昭和初期までの輸出を中心として躍進した時代をマッチ商標パネルとともに紹介されている。 特に目につくパネルは、「マッチラベルの歴史」と称して燐寸商標第一号である瀧川清燧社の「寝獅子」を筆頭に良燧社の「猿印」、清燧社の「桃印花籃童子」、直木政之介の「像ベスト」、「月琴」、秦銀兵衛の「鬼印」等々、30点以上の当時の人気票が喜多紫雲著『燐寸商標史』(大正3(1914)年発行)から抜粋して構成されている。
燐寸輸出盛衰比較表 燐寸輸出盛衰比較表:明治11(1878)年から32(1899)年までのマッチの輸出状況がわかる。明治16(1883)-17(1884)年には粗製乱造が問題化し、落ち込むが、その後は急速に伸張、大正8(1919)年頃までが輸出黄金期。(『坂神輸出燐寸業調査報告』明治34年) 燐寸商標史 燐寸商標史:大正3(1914)年、喜多紫雲著(熊谷久栄堂)による刊行図書。神戸新聞連載記事をもとにしたもの。商標ラベルの実物が貼られている貴重なマッチ商標資料。

新聞記事文庫

今回の展示資料は社会科学系図書館が所蔵するものに神戸大学経済経営研究所が編纂した『新聞記事文庫』からの新聞資料が加わったことでより理解が深まる展示となっている。 この『新聞記事文庫』は、明治45(1912)年から60年以上にわたって積み上げられた新聞記事資料で、記事数は50万件を越えている。そして「デジタル版新聞記事文庫」としてインターネットでも一般に公開されている。筆者もマッチ関連記事検索で活用させてもらい、大いに役立っている。