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清水 誠と新燧社商標

国産マッチの創始者、清水 誠の功績

清水 誠燐寸(マッチ)開祖 清水 誠:弘化2年12月25日、金沢に生れる。幼名を金之助。明治9年に新燧社を興し、明治21年に倒産したが、その後もマッチ業界の発展に大きな功績を残す。明治32年2月8日、逝去。享年55歳。(数えの年齢で算出。)

明治に入って日本は西欧文化を貪欲に取り入れ、殖産政策の一環として士族授産のためにもマッチ製造事業を導入しようと考えたのだが、さてその製法がわからない。ヨーロッパではすでに市場となっていたマッチ、日本は高価な発明品として輸入せざるをえない現状を打破しようとその大任を託されたのが清水 誠であった。

そこで国産マッチの開祖、清水 誠なる人物のマッチ製造に至る足跡を述べてみよう。

金沢藩士であった清水 誠は慶応元(1865)年、20歳の時、洋学修業のため、藩の選抜で長崎、横浜へ派遣され、明治元(1868)年に横浜でフランスから招いたお雇い外国人、ヴェルニ(F. L. Verny)から器械学、造船学を学んでいる。

そして、明治2(1869)年にフランス留学を果たし、ヴェルニ塾に学び、明治6(1873)年にはパリ工芸大学(パリ・エコール・サントラル)で理工科系科目を習得し、ここで身につけたことがのちのちマッチの開発に役立つことになる。ただ、この時点では当人にとってはマッチ事業を始めるとは思いもよらないことだっただろう。ちなみに、このフランス留学のため清水 誠が横浜港を出航した日の5月12日を『マッチの日』としている。

さて、これからがマッチの本題に入るのだが、明治7(1874)年、たまたまフランス外遊でパリに来た宮内次官、吉井友実卿と同席する機会があり、そこでマッチの国産化をはかるため、是非ともマッチ製造事業を興してほしいと懇願されてしまったのである。清水 誠にとっては大学で化学も学んだとはいっても本来、器械学、造船学に専念していたのに、エーッ!そんなぁ~、という心境だったかもしれない。

しかし、とにかく国のため、という気概で承諾し、明治7年10月3日横浜に帰国するのだが、清水 誠の凄いところは、国産マッチ製造に携わるだけでなく、学んだ才能を活かしてフランス金星観測隊員として帰国後12月、神戸で星学士ジャンサンとともに通訳兼写真儀担当として金星観測に加わり、また本来の目的であった造船学の技術も横須賀造船所勤務で果たしている。

明治32年、建立の紀功碑のかけら 清水 誠顕彰碑(右)と紀功碑(左):紀功碑が昭和20年3月10日の東京大空襲による火災で折れ倒壊してしまったため、昭和50年5月12日、清水誠顕彰会によって新たに旧碑の半分の大きさで再建(左端)。同時に新しく清水 誠顕彰碑(右側)を建立、「国産マッチの創始者・清水 誠の頌」として碑文に業績を記した。 清水 誠顕彰碑(左)と紀功碑(右) 明治32年、建立の紀功碑のかけら:平成16年春、亀戸天神の池の修復中に発見された。偶然にもかけら部分の文字には「新」と「燧」の文字が読み取れる。

造船所勤務とマッチ工場創設を並行して従事するなかで吉井卿の援助もあり、明治8(1875)年4月、東京三田四国町の吉井卿別邸に仮工場を建てマッチをどうにか製造し、テスト販売してみたところ、これが思いのほか好評を得たのである。この年の成功を記念して2005年の今年を国産マッチ生誕130周年としている。

そして、これでいけると踏んで翌、明治9(1876)年9月、国からの資金援助のもと東京本所柳原町(東京都立両国高校内)に本格的なマッチ工場「新燧社(しんすいしゃ)」を、資本金10万円で設立する。これで、横須賀造船所勤務はお役御免となり、マッチ製造業に専念することとなる。「新燧社」というマッチ会社が設立されたこの年をマッチ産業の嚆矢としている。

新燧社の社名の由来は、火打ち石の難しい漢字の「燧(ひうち)」をあてて、新しい燧、つまりマッチの意味から名付けられた。

清水 誠以前のマッチ試作

ただ、清水 誠がマッチ製造に携わる以前にも国内でマッチの試作、製造、販売は小規模であるが行われていた。 天保10(1839)年、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチといわれた讃岐高松藩の久米通賢(くめみちたか)栄左衛門、ついで嘉永元(1848)年、日本の化学の始祖といわれている兵庫の川本幸民(かわもとこうみん)によりマッチの試作がなされている。 また、明治政府は士族授産事業の一環としてマッチ製造業にも資金を投入し、明治6(1973)年、岩手県盛岡藩に「葆光社(ほうこうしゃ)」が最初のマッチ工場として設立されているがマッチ製造に対して稚拙な知識しか持ちえず、その結果、資金不足もあって、清水 誠のようにその後のマッチ産業への功績を残すことは出来なかったようである。

紀功碑(昭和7年修復時) 紀功碑(昭和7年修復時):明治32年8月、東京亀戸天神境内に建てられたが、関東大震災により地盤の一部が壊れたため、昭和7年8月に修復された。修復時には、日本燐枝錦集会によって「まっち塚」も建てられた。 清水 誠之墓 清水 誠之墓:明治38年2月8日、金沢市玉泉寺に建立。

新燧社の意匠

その後の清水 誠の活躍には目覚ましいものがあり、マッチ軸木の探索、確保、安全マッチの製法の伝播や輸出の先駆けも果たし、国産マッチの販売機関「開興商社」を設立する。くわえて、マッチ製造機械の改良、発明や連軸マッチ(ブックマッチ)の特許なども推し進め、先々、日本がマッチ大国となる礎を築いた。

さて、ここでは新燧社の初期のマッチラベルのいくつかを紹介する。 清水 誠はマッチ製造を開始するにあたってどんな意匠にしようかと考えた末、日本の象徴である桜を選んだ。

枝桜 枝桜:明治9年に設立した新燧社の最初の商標かと推測される。これに似た図柄が、新燧社跡地とされる都立両国高校敷地内に昭和61年8月、東京都が建てた「国産マッチ発祥の地」記念碑にも刻まれている。 銅版枝桜 銅版枝桜:明治10年、第1回内国勧業博覧会に出品し、鳳紋賞牌(ほうもんしょうはい)を得たことを記念して紙幣局(現在の国立印刷局)で刷られた精巧な銅版燐票。右に賞牌メダル、左には清水 誠が留学をはたしたフランスのメダルが描かれている。
一輪桜 一輪桜:明治14年、第2回内国勧業博覧会で進歩一等、有功一等を受賞した賞牌メダルを配している。内務卿の大久保利通は、このように添付することを奨励したため、以後、賞をとった会社はメダルを刷り込んだ燐票で優秀性を強調した。 桜花神佛燈火用 桜花神佛燈火用:「清浄御請合」の文句でマッチが不浄物でないことを強調した。神佛燈火用のキャッチコピーが光る。

金沢から意気に燃えて上京した折にふと目にした上野公園の満開の桜にちなんで桜花を新燧社のブランドマークにしたともいわれている。 「枝桜」、「一輪桜」の桜シリーズに加え、さらに絵馬にも見られるような「奔馬(ほんま)」の意匠も商標とした。これは当時、特に黄りんマッチは自然発火しかねない危険な商品でもあったため、祈願の意味を込めて水の神ともいわれる馬の図を描いたと思われる。 この時期は、まだ登録商標制度が制定されていないため、新燧社製の桜、馬の意匠を真似た多くの類似商標が出回り、他社の不良品が新燧社へ苦情として持ち込まれるなどして営業的にもかなりの苦労を強いられたようである。 明治17(1884)年に商標条例が初めて施行されてから明治18(1885)年6月20日に新燧社の「枝桜」、「一輪桜」、「奔馬」の商標もようやく登録を果たしている。

欧字円中奔馬(ダース上貼票) 欧字円中奔馬(ダース上貼票):舶来燐票のスタイルを真似た商標。マッチの名称はフランス語で彫られている。明治14年時、新燧社は東京小網町を販売所としていた。 奔馬 奔馬:奔馬に枝桜を配した商標。新燧社の初期の燐票は登録制度のない時代のため、「商標」とだけ記した燐票となっている。
商標公報 商標公報(部分):特許局による登録商標原簿。明治17年12月26日に出願し、明治18年6月20日に登録された新燧社の登録商標3点。新燧社最初の登録商標「枝桜」は第324号、「一輪桜」は第325号、「奔馬」は第326号。枝桜はマッチの商標として4番目に登録されている。登録されてからの燐票は、「商標」から「登録商標」へと表記が変わる。