マッチコラム
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国産マッチの創始者、清水 誠の功績
明治に入って日本は西欧文化を貪欲に取り入れ、殖産政策の一環として士族授産のためにもマッチ製造事業を導入しようと考えたのだが、さてその製法がわからない。ヨーロッパではすでに市場となっていたマッチ、日本は高価な発明品として輸入せざるをえない現状を打破しようとその大任を託されたのが清水 誠であった。
そこで国産マッチの開祖、清水 誠なる人物のマッチ製造に至る足跡を述べてみよう。
金沢藩士であった清水 誠は慶応元(1865)年、20歳の時、洋学修業のため、藩の選抜で長崎、横浜へ派遣され、明治元(1868)年に横浜でフランスから招いたお雇い外国人、ヴェルニ(F. L. Verny)から器械学、造船学を学んでいる。
そして、明治2(1869)年にフランス留学を果たし、ヴェルニ塾に学び、明治6(1873)年にはパリ工芸大学(パリ・エコール・サントラル)で理工科系科目を習得し、ここで身につけたことがのちのちマッチの開発に役立つことになる。ただ、この時点では当人にとってはマッチ事業を始めるとは思いもよらないことだっただろう。ちなみに、このフランス留学のため清水 誠が横浜港を出航した日の5月12日を『マッチの日』としている。
さて、これからがマッチの本題に入るのだが、明治7(1874)年、たまたまフランス外遊でパリに来た宮内次官、吉井友実卿と同席する機会があり、そこでマッチの国産化をはかるため、是非ともマッチ製造事業を興してほしいと懇願されてしまったのである。清水 誠にとっては大学で化学も学んだとはいっても本来、器械学、造船学に専念していたのに、エーッ!そんなぁ~、という心境だったかもしれない。
しかし、とにかく国のため、という気概で承諾し、明治7年10月3日横浜に帰国するのだが、清水 誠の凄いところは、国産マッチ製造に携わるだけでなく、学んだ才能を活かしてフランス金星観測隊員として帰国後12月、神戸で星学士ジャンサンとともに通訳兼写真儀担当として金星観測に加わり、また本来の目的であった造船学の技術も横須賀造船所勤務で果たしている。
造船所勤務とマッチ工場創設を並行して従事するなかで吉井卿の援助もあり、明治8(1875)年4月、東京三田四国町の吉井卿別邸に仮工場を建てマッチをどうにか製造し、テスト販売してみたところ、これが思いのほか好評を得たのである。この年の成功を記念して2005年の今年を国産マッチ生誕130周年としている。
そして、これでいけると踏んで翌、明治9(1876)年9月、国からの資金援助のもと東京本所柳原町(東京都立両国高校内)に本格的なマッチ工場「新燧社(しんすいしゃ)」を、資本金10万円で設立する。これで、横須賀造船所勤務はお役御免となり、マッチ製造業に専念することとなる。「新燧社」というマッチ会社が設立されたこの年をマッチ産業の嚆矢としている。
新燧社の社名の由来は、火打ち石の難しい漢字の「燧(ひうち)」をあてて、新しい燧、つまりマッチの意味から名付けられた。
清水 誠以前のマッチ試作
ただ、清水 誠がマッチ製造に携わる以前にも国内でマッチの試作、製造、販売は小規模であるが行われていた。 天保10(1839)年、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチといわれた讃岐高松藩の久米通賢(くめみちたか)栄左衛門、ついで嘉永元(1848)年、日本の化学の始祖といわれている兵庫の川本幸民(かわもとこうみん)によりマッチの試作がなされている。 また、明治政府は士族授産事業の一環としてマッチ製造業にも資金を投入し、明治6(1973)年、岩手県盛岡藩に「葆光社(ほうこうしゃ)」が最初のマッチ工場として設立されているがマッチ製造に対して稚拙な知識しか持ちえず、その結果、資金不足もあって、清水 誠のようにその後のマッチ産業への功績を残すことは出来なかったようである。
新燧社の意匠
その後の清水 誠の活躍には目覚ましいものがあり、マッチ軸木の探索、確保、安全マッチの製法の伝播や輸出の先駆けも果たし、国産マッチの販売機関「開興商社」を設立する。くわえて、マッチ製造機械の改良、発明や連軸マッチ(ブックマッチ)の特許なども推し進め、先々、日本がマッチ大国となる礎を築いた。
さて、ここでは新燧社の初期のマッチラベルのいくつかを紹介する。 清水 誠はマッチ製造を開始するにあたってどんな意匠にしようかと考えた末、日本の象徴である桜を選んだ。
金沢から意気に燃えて上京した折にふと目にした上野公園の満開の桜にちなんで桜花を新燧社のブランドマークにしたともいわれている。 「枝桜」、「一輪桜」の桜シリーズに加え、さらに絵馬にも見られるような「奔馬(ほんま)」の意匠も商標とした。これは当時、特に黄りんマッチは自然発火しかねない危険な商品でもあったため、祈願の意味を込めて水の神ともいわれる馬の図を描いたと思われる。 この時期は、まだ登録商標制度が制定されていないため、新燧社製の桜、馬の意匠を真似た多くの類似商標が出回り、他社の不良品が新燧社へ苦情として持ち込まれるなどして営業的にもかなりの苦労を強いられたようである。 明治17(1884)年に商標条例が初めて施行されてから明治18(1885)年6月20日に新燧社の「枝桜」、「一輪桜」、「奔馬」の商標もようやく登録を果たしている。