HOME > バーチャルミュージアム > 1926-1989 昭和のマッチ年表

1926-1989 昭和のマッチ年表

1927(昭和2)年
1月23日、「関西燐票研究会・故人愛燐家追善会」大阪天王寺雲水に於いて開催。
1927(昭和2)年
9月、スウェーデン・マッチトラストにより、東洋燐寸とスウェーデン燐寸系の日本燐寸製造、公益社を合同した「大同燐寸株式会社」が設立。
1927(昭和2)年
9月、福山碧翠、燐寸商の繁盛に伴い、南千住町にマッチ工場設立。
1927(昭和2)年
10月、福山碧翠の燐票蒐集量20万種。
1927(昭和2)年
11月、引き続きスウェーデン・マッチトラストにより、諫山燐寸、蒲田燐寸会社を合同した「朝日燐寸株式会社」が設立。
1927(昭和2)年
鈴木商店の破綻により、帝国燐寸株式会社は工場閉鎖、工員解雇。
1928(昭和3)年
スウェーデン燐寸系の大同燐寸株式会社、朝日燐寸株式会社で全国のマッチ生産量の70%近くを占有。
1928(昭和3)年
2月、株式会社小林燐寸、山本真蔵燐寸工場が大同燐寸株式会社と合併。
1928(昭和3)年
5月、済南事変、勃発。
1928(昭和3)年
5月、燐票家・水井正気、燐票蒐集量15万種。
1928(昭和3)年
中国で排日貨運動が盛んとなり、日本からのマッチ輸出は急減。
1928(昭和3)年
11月、天皇即位御大礼。
1928(昭和3)年
11月24日、「日本燐枝錦集会25周年祝賀会」神田佐久間町の古屋蘭渓宅に於いて開催。
1929(昭和4)年
1月19日、「東京燐寸業同志会」創立、福山碧翠、幹事就任。
1929(昭和4)年
1月24日、日本燐枝錦集会機関誌『錦』30号として復刊。
1929(昭和4)年
スウェーデンマッチは大同燐寸の入江工場(神戸市)に最新の自動燐寸製造機5台、箱詰機、箱貼機を設置して大量生産に入る。
1929(昭和4)年
5月、姫路で嵯峨山作一が「嵯峨山燐寸製造所」を設立。現在は「神戸マッチ株式会社」として操業。
1929(昭和4)年
6月1日~23日、新国劇「燐寸」上演期間中、「燐票大展覧会」東京新橋演舞場に於いて開催。
1929(昭和4)年
8月14日~18日、「趣味図案・燐票展覧会」名古屋松坂屋に於いて開催。
1929(昭和4)年
8月、福山碧翠、住居、浅草諏訪町に移転。
1929(昭和4)年
10月、株価大暴落、世界的経済大恐慌起こる。
1929(昭和4)年
10月15日、福井の殿様・松平康荘翁、浅草諏訪町の福山碧翠宅ご来遊。
1930(昭和5)年
クロイガーのスウェーデン・マッチ・トラストは、25ヶ国に及ぶマッチ独占権を保有。
1930(昭和5)年
2月21日~26日、「多納趣味会・趣味と図案マッチレッテル展覧会」大阪松坂屋に於いて開催。
1930(昭和5)年
8月26日~31日、「日本燐枝錦集会・全国マッチレッテル展覧会」東京上野松坂屋に於いて開催。
1930(昭和5)年
この年、輸出高が467万円と不振。
1930(昭和5)年
大同燐寸印刷工場(神戸市)で刷られた三井物産、月琴(げっきん)印の類似商標がスウェーデン燐寸系のフィリピン燐寸会社より売り出され、商標係争事件として発展。
1931(昭和6)年
明石、小野田勘治の正栄社は工場を整理し、「正栄社燐寸合資会社」に社名改め、事業継承。
1931(昭和6)年
11月15日、福山碧翠、店舗を三階建てに改築し「 奴マッチ創業30年祭」催す。日本燐枝錦集会本部として毎月24日に例会開催。
1932(昭和7)年
上海事変、勃発。満州国建国宣言。
1932(昭和7)年
2月、「東京広告燐寸同業組合」創立、福山碧翠、顧問就任。
1932(昭和7)年
3月、欧州金融恐慌でスウェーデン・マッチが行き詰まり、スウェーデンのマッチ王、クロイガーが自殺。
1932(昭和7)年
スウェーデン資本なき大同燐寸株式会社は、鮎川義介の久原コンツェルン(日本産業)の傘下となり邦人事業として新発足。
1932(昭和7)年
アメリカへのマッチ輸出が急増。
1932(昭和7)年
8月、「燐寸元祖・清水 誠碑」再建。「まっち塚」建立。
1932(昭和7)年
日本燐寸工業組合による生産統制の実施遂行。
1933(昭和8)年
5月、福山碧翠、脳出血で倒れ「やっこ商行」を同好者の小川沙久に譲る。谷中清水町に閉居。
1933(昭和8)年
12月、大同燐寸株式会社が日本燐寸工業組合を脱退。
1934(昭和9)年
3月3日、午後7時、福山碧翠、悪性の感冒併発により逝去、享年57歳。浅草千束町に於いて葬儀。
1934(昭和9)年
9月26日、亀戸神社境内に「福山碧翠記念碑」建立。「まっち塚」は廃棄。
1934(昭和9)年
スウェーデンとの販路協定を提議。
1934(昭和9)年
神戸市燐寸軸木商同業組合が解散。
1934(昭和9)年
アメリカはマッチ工業法を設け、日本に対し高圧関税をかける。
1935(昭和10)年
3月、福山碧翠の遺志を引き継ぎ、稲垣壽美未亡人、浅草田原町で燐票専門販売店「碧翠洞(へきすいどう)」開店。
1935(昭和10)年
4月18日、古屋蘭渓、島田淡舟により日本燐枝錦集会機関誌「錦」72号として再刊。
1935(昭和10)年
8月18日、「愛燐郷大家歓迎記念会」開催。
1935(昭和10)年
この頃の主な仕向け地のマッチ輸出数量順位は、朝鮮、香港、台湾、シンガポール、北米。
1935(昭和10)年
広告マッチは盛況を示し、月の消費では東京1300万個、大阪700万個に達する。
1936(昭和11)年
2月26日、大阪の燐票大家・岸上秋月(きしがみ しゅうげつ)「本票錦整式」燐票貼込帳お披露目。
1936(昭和11)年
5月20日、「やっこ商行」小川沙久(さきゅう)、逝去、享年48歳。
1936(昭和11)年
7月16日、子息、小川幸男により「奴マッチ・小川商店」として浅草雷門へ移転して営業継続。
1936(昭和11)年
12月、「日本燐寸共販株式会社」が設立。マッチの販売統制が始まる。
1937(昭和12)年
4月25日、日本燐枝錦集会機関誌『錦』83号をもって終止。
1937(昭和12)年
7月、支那事変(日中戦争)、勃発。
1938(昭和13)年
マッチに初めて物品税が課税(1000本に付き、5銭)。マッチの公定価格が決定(並型マッチ10個包みが12銭の公定価格)。
1939(昭和14)年
9月、大同燐寸株式会社は「日産農林工業株式会社」に合併。
1939(昭和14)年
9月、第2次世界大戦、勃発。ドイツ軍によるポーランド侵攻。
1939(昭和14)年
10月、「価格統制令」が公布。
1940(昭和15)年
「マッチ配給統制規則」が公布。
1940(昭和15)年
11月10日、紀元2600年祝典。
1940(昭和15)年
マッチ、砂糖、小麦粉、食用油の配給切符制が実施。
1941(昭和16)年
12月8日、第2次世界大戦、勃発。日本がハワイ真珠湾奇襲攻撃。
1942(昭和17)年
9月、「日本燐寸統制株式会社」が設立。(日本燐寸工業組合と日本燐寸共販株式会社、東・西日本軸木工業組合、同聯合会を統括)
1945(昭和20)年
米軍の空襲により全国のマッチ工場が罹災。
1945(昭和20)年
8月、第2次世界大戦、終結。ポツダム宣言、受諾。
1946(昭和21)年
9月、「統制会社令」の廃止に伴い、日本燐寸統制株式会社は「日本燐寸産業株式会社」に改組。
1946(昭和21)年
11月、日本国憲法、公布。
1947(昭和22)年
5月、日本燐寸産業株式会社は「日本燐寸会議所」、「神戸資材株式会社」、「三晃物産株式会社」、「日燐興業株式会社」に分割。
1948(昭和23)年
8月、大韓民国、成立。 9月、朝鮮民主主義人民共和国、成立。
1948(昭和23)年
岡田燐寸製造所を「大和燐寸株式会社」に組織変更。現在は「大和産業株式会社」に社名変更して操業。鶴丸印が代表商標。
1948(昭和23)年
岡田燐寸製造所を「播磨燐寸株式会社」に組織変更。現在は「ハリマ株式会社」に社名変更して操業。鶴盃印が代表商標。
1948(昭和23)年
9月、マッチ配給統制が撤廃。自由販売が復活(標準販売価格、並型1個、7月1円50銭、9月2円10銭)。
1948(昭和23)年
9月15日、不良マッチ退治の主婦大会を機に主婦連合会、結成。
1949(昭和24)年
10月、日本燐寸会議所が「社団法人 日本燐寸工業会」に改組。
1949(昭和24)年
10月、中華人民共和国、成立。
1950(昭和25)年
4月、八家食品工業株式会社が「八家化学工業株式会社」に社名変更し、マッチ製造販売業を併営。
1950(昭和25)年
6月、朝鮮戦争、勃発。日本に特需景気。
1950(昭和25)年
日本全国でのマッチ工場が158工場となる。
1952(昭和27)年
7月27日、「日本燐寸調整組合」が発足。数量調整を開始。
1952(昭和27)年
8月、「特定中小企業の安定に関する臨時措置法」が成立し、マッチ製造業は指定業種となる。
1953(昭和28)年
「広告燐寸東京向出荷協同組合」が設立。
1953(昭和28)年
4月、「安全マッチ」の日本工業規格(JIS)制定。
1954(昭和29)年
中小企業安定法に基づきマッチ工場の新設全面禁止。
1954(昭和29)年
この頃から中箱(抽斗(ひきだし))を経木製から紙製の小箱へと転換を始める。
1955(昭和30)年
八家化学工業株式会社が自動ブックマッチ製造機を導入、販売開始。
1956(昭和31)年
6月、日本燐寸軸木用材共同組合、日本燐寸協同組合が発足。
1956(昭和31)年
この頃から外箱を経木製から紙製の板紙に印刷したオーダーマッチへ切り替えが始まる。
1957(昭和32)年
4月、日本燐寸調整組合を「日本燐寸工業組合」に改組。
1959(昭和34)年
11月1日、「想燐(そうりん)関東友の会」発足。(東京)
1960(昭和35)年
4月1日、商標法「昭和34年法」が施行。商標権の存続期間を20年から10年に短縮。
1960(昭和35)年
広告マッチの需要が伸び、生産全体の39%に達する。
1961(昭和36)年
自動マッチ製造機の導入が始まり、製造の近代化が進む。
1964(昭和39)年
8月、「日本共同マッチ株式会社」が発足。
1965(昭和40)年
11月、中国で文化大革命が始まる。
1966(昭和41)年
6月、ザ・ビートルズ来日。
1966(昭和41)年
7月、社団法人 日本燐寸工業会、日本燐寸工業組合および日本燐寸協同組合の事務局を神戸市長田区浪松町に新築。
1970(昭和45)年
3月、大阪で日本万国博覧会、開幕。
1973(昭和48)年
この年、総生産量が戦後最大の80万マッチトンとなる。内輸出量は1万8000 マッチトン。
1974(昭和49)年
9月、物品税が撤廃。
1974(昭和49)年
11月、「マッチ100年記念式典」開催。
1975(昭和50)年
5月12日、マッチ創業100年記念事業の一環として清水 誠顕彰会により亀戸天神境内に戦災で倒壊した清水 誠の「紀功碑」を再建、同地に新しく「清水 誠顕彰碑」建立。
1975(昭和50)年
5月、株式会社東海精器が100円の使い捨てライター、チルチルミチル発売。
1976(昭和51)年
5月、最新のスウェーデン製完全自動マッチ製造機一式が姫路市白浜町のパイオニア協同組合に設置、稼働。
1977(昭和52)年
事務所を神戸市中央区北長狭通りに移転(神戸市長田区浪松町の敷地、建物は兵庫県に売却)。燐寸機械研究所は閉鎖。
1977(昭和52)年
マッチ製造機の共同廃棄事業(マッチ製造業制限設備共同廃棄事業)を実施。
1978(昭和53)年
11月、日本燐寸協同組合より『マッチ時報』が発刊。(現在は、協同組合・日本マッチラテラルから発刊)
1979(昭和54)年
家庭用マッチ共販機構、マッチ業全国公正取引協議会が設立。
1980(昭和55)年
第2回共同廃棄事業を実施。
1980(昭和55)年
4月17日、「奴燐寸本舗株式会社小川商店」から「株式会社オガワ」に社名変更。
1980(昭和55)年
広告用マッチ共販機構、設立。
1981(昭和56)年
7月、東京銀座に於いて「第1回マッチフェア」が開催。
1981(昭和56)年
10月4日、社団法人 日本燐寸工業会を事務局(東京銀座)とし、ジャパン・マッチコレクターズ・クラブ(J.M.C.C.)が発足。
1981(昭和56)年
11月29日、「想燐関東友の会」を「想燐友の会」に改称。(東京)
1982(昭和57)年
2月、名古屋に於いて「’82マッチとタバコフェア」が開催。
1982(昭和57)年
広告マッチ流通協議会、設立。
1983(昭和58)年
10月、盛岡に於いて「全国マッチフェア」が開催。
1984(昭和59)年
軸木の太さが2.2ミリ角に改正。
1985(昭和60)年
3月、神戸三宮に於いて「なつかしのマッチラベル展」が開催。
1985(昭和60)年
東京銀座にある社団法人 日本燐寸工業会東京事務所の建物を売却。
1986(昭和61)年
1月11日~2月1日、「マッチの風俗史展示会」東京農工大学繊維博物館に於いて開催。
1986(昭和61)年
6月、東京晴海国際見本市に於いて「インターナショナル・ハウスウェアショー’86」にマッチPRの出品展示。
1986(昭和61)年
8月19日、清水 誠の新燧社マッチ工場跡地、現在の東京都墨田区、両国高校内に「国産マッチ発祥の地」の記念碑が建立。
1986(昭和61)年
マッチ製造業は政府の実施した事業転換対策臨時措置法の業種指定を受ける。
1986(昭和61)年
11月21日、「燐寸倶楽部」発足。(東京)
1987(昭和62)年
日本燐寸協同組合内に事業転換対策委員会を設置。
1987(昭和62)年
姫路の日東社が黒づくめのマッチ、小物類を「ブラックシリーズ」として商品化しヒット。
1987(昭和62)年
マッチ製造会社37社、マッチ会社が投資した関係会社63社合わせて100社となるが、マッチ取扱い額は全体の2割弱となる。
1988(昭和63)年
日本燐寸協同組合内に将来発展が期待されるバイオに注目して「バイオ研究所」を設立。
1989(昭和64)年
1月7日、昭和天皇、崩御。