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1912-1926 大正のマッチ年表

1912(大正元)年
福山碧翠(ふくやま へきすい)、燐票蒐集量6万3000種。
1912(大正元)年
9月22日、古屋蘭渓(ふるや らんけい)により「燐票一品会」第15回大会開催。
1912(大正元)年
この年、マッチ総生産量106万マッチトン、内輸出量が90万マッチトンとなり、生産量の85%が輸出される。
1914(大正3)年
4月1日~10日、「第2回神戸貿易製品共進会・燐票展覧会」神戸湊川公園に於いて開催。
1914(大正3)年
4月、姫路で田中竹次が「田中燐寸製造所」を設立。現在は「田中燐寸株式会社」として操業。
1914(大正3)年
8月、第1次世界大戦、勃発。
1914(大正3)年
硫化燐マッチが日本でも製造され、ボンベイ、カルカッタ方面へ輸出を開始。
1915(大正4)年
スウェーデンのイウォール・クルーガーはスウェーデン・マッチ工場連合を組織し、後に「クルーガー・アンド・トール社」に改組。
1915(大正4)年
大正天皇御大典祝賀。
1916(大正5)年
1月7日、福山碧翠、大阪難波に移転、「大阪燐枝好友会」創立に尽力。
1916(大正5)年
8月1日、「愛燐大家燐票展覧会」大阪に於いて開催。
1916(大正5)年
9月、瀧川辨三(たきがわ べんぞう)は、自ら経営する清燧社(せいすいしゃ)と良燧合資会社を合同し「瀧川燐寸株式会社」を設立。
1916(大正5)年
金子直吉、鈴木商店の事業の一つとして「帝国燐寸株式会社」を設立し、マッチ業界に乗りだすが、翌年、瀧川と合同提携。
1916(大正5)年
この年、輸出高が2000万円を突破し、2228万円に達する。
1917(大正6)年
1月、瀧川燐寸株式会社は鈴木商店と提携して「東洋燐寸株式会社」に改組。
1917(大正6)年
2月15日、亀山閃放により燐友社創設、『燐友』創刊。
1917(大正6)年
7月4日、「大阪燐枝好友会・交換陳列会」大阪日本橋に於て開催。
1917(大正6)年
7月、福山碧翠、6年振りに大阪より帰京し、神田松富町に燐票店を開業。
1917(大正6)年
仁川に「朝鮮燐寸株式会社」、天津、奉天(現・瀋陽)には「東亜燐寸株式会社」が設立。
1917(大正6)年
中国におけるマッチ工業の発展は著しく、中国東北部(旧満州)方面で55マッチ工場が設立。
1917(大正6)年
スウェーデンのクロイガーがスウェーデン国内のマッチ会社を統合して「スウェーデン マッチ会社」を設立。
1917(大正6)年
スウェーデン・マッチトラスト、インドに進出し、マッチ工業興す。
1918(大正7)年
1月、東洋燐寸株式会社の瀧川儀作が兵庫県下の28工場を統合して、「帝国燐寸株式会社」を設立。
1918(大正7)年
6月16日、「阪神燐票連合会・交換陳列会」大阪天王寺公園前吉乃家に於いて開催。
1918(大正7)年
2月、第1次大戦参戦で得た租借地青島に瀧川儀作(ぎさく)が「青島燐寸株式会社」を設立。
1918(大正7)年
10月11日~50日間、農商務省工芸発明展覧会内「日本燐枝錦集会創立15周年記念・全国燐票陳列大会」東京上野公園に於いて開催。
1918(大正7)年
11月、公益社を中心とした日本紙軸燐寸製造合資会社、諫山工場、東工場、山田工場等が合同し、合計12工場の「中央燐寸株式会社」を設立。
1918(大正7)年
12月、岡山で「中外燐寸株式会社」が設立。現在も操業。
1919(大正8)年
1月、クロイガーはアメリカに「アメリカン・クロイガー・アンド・トール社」を設立。
1919(大正8)年
姫路で岡田兼治が「岡田燐寸製造所」を設立。
1919(大正8)年
8月、日本燐枝錦集会見立による初の「愛燐家番附」発表。
1919(大正8)年
この年、輸出高が4000万円を突破し、4198万円に達し、輸出高最高記録を樹立。
1920(大正9)年
6月、アメリカ、ダイヤモンド社が東洋、日本、帝国、中央燐寸株式会社との日米燐寸会社合同計画を提案するが発展せずに終止。
1920(大正9)年
ワシントン国際労働会議において黄りんマッチの生産禁止決議。
1920(大正9)年
11月、「日本燐枝錦集会大阪支部」、「日本燐枝錦集会神戸支部」創立。
1920(大正9)年
11月27日、日本燐枝錦集会機関誌『錦(にしき)』創刊号発刊。
1921(大正10)年
中国マッチ工場の勃興、87マッチ工場が設立。
1922(大正11)年
1月11日、「大正10年商標法」が施行。昭和34年法に至るまで施行。
1922(大正11)年
ワシントン国際労働会議において世界での黄りんマッチ製造禁止条約が締結。
1922(大正11)年
クロイガーは、アメリカに「インターナショナル・マッチ・コーポレーション(国際マッチ会社)」を設立し、世界制覇を目指す。
1922(大正11)年
6月、黄りんマッチ製造、輸出禁止。
1923(大正12)年
黄りんマッチ製造禁止により、以後、大阪、名古屋の黄りんマッチ工場が全滅。
1923(大正12)年
9月1日、関東大震災、突発。
1923(大正12)年
12月、「日東社燐寸製造所」が設立。現在は「株式会社日東社」として創業。
1923(大正12)年
9月1日、福山碧翠、関東大震災被害に遭うが、その後に広告マッチ業開業。
1923(大正12)年
スウェーデン・マッチのボンベイ市場販路拡張とインド自国製造により、日本の輸出、阻止される。
1924(大正13)年
スウェーデン燐寸系、「インターナショナル・マッチ・コーポレーション」が日本燐寸製造株式会社の株式過半数を買収。
1924(大正13)年
この頃から日本独自の発明品、徳用型家庭マッチが実用化され、販売も始まる。
1924(大正13)年
8月25日~27日、「関西燐票研究会・第1回燐票展覧会」大阪堺筋白木屋呉服店に於いて開催。
1925(大正14)年
1月12日、日本のマッチ王、瀧川辨三、逝去、享年73歳。
1925(大正14)年
4月、スウェーデン燐寸系「インターナショナル・マッチ・コーポレーション」が小林燐寸株式会社と資本提携。
1925(大正14)年
9月、スウェーデン燐寸系「インターナショナル・マッチ・コーポレーション」が公益社と資本提携し「株式会社公益社」を組織。
1925(大正14)年
9月、燐票家・高野弦月、広告票蒐集量3万種。
1926(大正15)年
東京放送局がラジオの試験放送を開始。
1926(大正15)年
日本燐寸同業組合聯合会を「日本燐寸工業組合」に改組。
1926(大正15)年
「燐寸共同販売組合」が発足。
1926(大正15)年
1月17日~23日、「広告燐票蒐集会、日本燐枝錦集会・趣味の燐票展覧会」東京銀座松坂屋に於いて開催。
1926(大正15)年
2月10日~14日、「宣伝燐票会神戸支部・第1回マッチレッテル展覧会」神戸湊川新開地神戸デパートに於いて開催。
1926(大正15)年
2月19日~23日、「大阪燐枝好友会10周年記念・燐票趣味展覧会」大阪宝塚新温泉に於いて開催。
1926(大正15)年
3月、「多納趣味会・趣味の蒐集品展覧会」名古屋松坂屋に於いて開催。
1926(大正15)年
3月29日、松平康荘翁、神田末広町の福山碧翠宅ご来遊。
1926(大正15)年
8月28日~30日、「関西燐票研究会・第2回燐票展覧会」大阪堺筋白木屋呉服店に於いて開催。
1926(大正15)年
福山碧翠、神田末広町に広告燐寸商「ヤッコ商行」開業。
1926(大正15)年
福山碧翠により関東大震災以来休会していた「日本燐枝錦集会」復興。
1926(大正15)年
12月25日、大正天皇、崩御。昭和と改元。