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マッチの歴史

マッチ業界の多角化 昭和61〜平成7年(1986〜1995)

「国産マッチ発祥の地」記念碑  明治9年(1876)に清水誠が東京本所柳原町に新燧社を設立して、マッチ製造を始めたことは公知の事実であるが、その正確な場所ははっきりしていなかった。清水誠顕彰会の人々の努力によりその場所が判明した。それによると現在の墨田区江東橋1丁目5〜7及び10〜15番地で今の東京都立両国高校がすっぽり入る大工場であった。昭和61年(1986)に、清水誠顕彰会の人々の肝入りで、同高校の校庭内に記念碑「国産マッチ発祥の地」を建立し8月19日に除幕式をあげた。
 マッチの需要減にともない、業界の各企業は生き残りをかけて経営の多角化に進んでいった。昭和62年(1987)の調査によると、マッチ製造以外に印刷、紙器製造、ティッシュ製造、使い捨てライター、食品製造・販売、機械加工、メッキ、駐車場など約50種の製造や販売方面に拡張している。この結果、会社数はマッチ製造の37社とマッチ会社が投資した関係会社63社を合わすと100社に達し、その内マッチの取扱い額は全体の2割弱に過ぎない。
 この時代の流れに沿って、マッチ製造業は昭和61年に政府の実施した事業転換対策臨時措置法の業種指定を受け、62年には日本燐寸協同組合内に事業転換対策委員会を設置し、63年には同組合内に将来発展が期待されるバイオに注目してバイオ研究所を設立した。
 平成2年(1990)には日本燐寸協同組合の事業内容をマッチ以外にも拡げる意味で、改組して名称を協同組合日本マッチラテラルとした。ラテラルとは木の幹から枝葉が伸びるようにマッチを幹としてさらに発展を遂げるという意味である。平成3年(1991)3月2日に、社団法人日本燐寸工業会創立40周年、協同組合日本マッチラテラル(旧日本燐寸協同組合)35周年、日本燐寸工業組合35周年を記念し、「融合化の祭典」と称して、神戸ポートピアホテルにおいて盛大に実施した。当日の出席者は177名に達する。
Contents
マッチ年表
1669-1912 〜明治
1912-1926 大正
1926-1989 昭和
1989- 平成
マッチの歴史
はじめに
マッチの黎明
マッチの創業
マッチの基礎固まる
マッチの進展時代
マッチの黄金時代
第1次世界大戦後の不況はじまる
スウェーデンマッチの日本上陸
第2次世界大戦に突入
戦後の廃墟から復興
マッチ製造機械化の進展
マッチの需要旺盛
マッチの代替品出現
マッチ業界の多角化
躍進続けるマッチ業界
   マッチ業界は事業の多角化にともない、労働力および将来を担う人材の確保のために、協同組合日本マッチラテラルが中心となって、平成6年(1994)から労働力確保推進事業および人材確保推進事業を実施している。
 平成7年(1995)1月17日に阪神・淡路大震災が発生、神戸・明石のマッチ工場が被災したが、早急に復興してマッチ消費者に迷惑がかからないようにした。マッチの事務局の建物は大きな被害を受け、本館の方は応急措置を施したが、併設のバイオ研究所は全壊の状態で、余儀なく研究所を閉鎖した。
 平成7年からPL法施行にもとづき業界としては、PL対策委員会を設置し、海外の事例等を参考に保険加入等遺漏なきよう対策を講じた。
 ここで、マッチの創業以来の小売り価格の変遷をたどってみると以下の通りになる。
(並型マッチ10個包みの小売価格)
明治 9年 (1876) 3銭
25〃 (1892) 2銭5厘
29〃 (1896) 2銭
40〃 (1907) 3銭
43〃 (1910) 5銭
大正 3年 (1914) 3銭
昭和 3年 (1928) 7〜8銭
13〃 (1938) 12銭(公定価格)
17〃 (1942) 20銭
18〃 (1943) 30銭
19〃 (1944) 40〜50銭
20〃 (1945) 1円50銭 インフレ時代
21〃 (1946) 3円
22〃 (1947) 4円10銭〜12円30銭
23〃 (1948) 15〜21円
24〃 (1949) 24円(7月公定価格廃止)
25〃 (1950) 20円
26〃 (1951) 15円
28〃 (1953) 20円
32〃 (1957) 25円
33〃 (1958) 30円
37〃 (1962) 35円
40〃 (1965) 40円
42〃 (1967) 45円
46〃 (1971) 55円
48〃 (1973) 60円
49〃 (1974) 110円
50〃 (1975) 100円
55〃 (1980) 120円
平成 17年 (2005) 167円(6個100円を換算)
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