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マッチの基礎固まる - 明治19〜28年(1886〜1885)

秦燐寸の商標「秦銀鶴印」秦燐寸の商標「秦銀鶴印」

明治19年(1886)に北海道に豊富にある白楊を材料にした製軸工場が出現した。以後、北海道に製軸工場が4、5工場に増えていたが、明治27年(1894)には一躍17工場となり、兵庫県産の製軸を凌駕するようになった。

明治19年に神戸の泉田文四郎が良燧社を、秦銀兵衛が秦燐寸工場を設立するなど、マッチ製造業の拡張時代に入った。

明治20年(1887)わが国の燐寸組合の前身である兵庫県燐寸製造組合が設立され、輸出マッチの検査と商標の調査を開始、神戸税関構内に輸出燐寸検査所を設置した。この組合の役員として播磨幸七、本多義知、瀧川辨三の名がある。
この年に神戸で直木政之介が直木第一工場を設立している。また7月に開かれた神戸区物産品評会では、播磨幸七、本多義知の両氏の出品したマッチが何れも1等褒章を受けている。明治21年(1888)に兵庫県燐寸製造組合は大阪摺付木製造業組合と協定し、大阪兵庫摺付木製造業組合聯合会を設置して、輸出燐寸の検査所事務所を聯合会に移して、実際の検査は神戸港中税関において行われた。
この年、組合でマッチの商標の調査が始まり、登録商標簿、未登録商標簿を作成することとなったが、未登録商標、連続商標や無数にある国内向け商標の問題があって、一応完成したのは2年後の明治23年であった。

明治22年(1889)になると輸出は順調に伸びて、10万マッチトン、113万円に達した。清水誠が明治11年に初めて上海に輸出した時に比べると夢のような数字である。神戸在住の華商・廣駿源は神戸市内でマッチを製造していたが、この年、居留地の治外法権制度を悪用して売行良好な商標と類似したものをマッチに貼付して販売した。組合が抗議すると廣駿源は、

・日本の法律で保護されぬ以上、日本の法律を厳守する理由はない。
・日本の商標は登録を得ているといえども、欧州製品の模造をするものが多い。日本商標が欧州商標を模している以上、支那商が日本の商標を模することは自由である。

と主張した。

その後しばしば交渉するも一向に解決のめどがつかない。組合は当局に陳情したところ、「上海等で日本人が工業を営むことができない。ましてマッチ製造のように我が国製造業者に迷惑を与えるものは尚更である」として、6ヶ月の期限付きで営業停止を命じた。廣駿源は営業停止期限前に工場名義を英人エッチゼーピーアスに売り渡し、実際は廣駿源が生産を続けた。
組合側は交渉では効果が上がらないので、原材料・製品を問わず彼の工場とは取引きを行わないことを決議する等の対抗策をとった。最終的には神戸商業会議所の村野山人会頭の調停により、和解している。


象印ベストマッチ象印ベストマッチ

明治23年(1890)当時、国内では直木マッチ工場の象印のベストマッチの売行きが好調で、類似商標が続出しその数26種に達したと言われている。類似商標の横行に悩まされた直木政之介は、当時物見高の浅草12階(凌雲閣)に「わがベストマッチに類似せる商標を発見、ご通知の方に金100円を贈呈する」旨を広告するとともに、新聞にも同様の主旨の広告を出した。これは類似商標に悩まされたのは事実であるが、むしろベストマッチが優秀なマッチであるとの宣伝に新聞広告を利用したものといわれている。

明治18年に一旦製造を禁止された黄りんマッチが、明治23年に解禁された。これは中国からの需要が多く、外国製の黄りんマッチに対抗するためといわれている。本格的に製造および輸出禁止となったのは大正11年(1922)である。


インド向け商標 インド向け商標

明治20年代に入って類似商標の横行に悩まされ、当局に種々陳情している。その中で次のようなエピソードがある。明治24年(1891)直木政之介は議会で取り上げてもらうため、時の農商務相陸奥宗光に膝詰陳情した。官尊民卑の当時に紹介状なしに大臣に会えたのは、「大臣に面会するには紹介状は要らぬ。三人曳きの人力車に乗って、官邸に乗り入れるに限る」との秘訣を聞き、勇敢に実行したという。

明治中期になってマッチの輸出は順調に進展した。即ち明治25年(1892)にはマッチ輸出額が220万円に、26年(1893)に350万円、27年(1894)に379 万円、28年(1895)には467万円に達した。

明治26年に日本郵船がインド向けのボンベイ航路を開設し、途中で積替えをしていたマッチの輸出が直接インド向けに出荷できるようになったので、それ以後インド向けマッチが増えた。

【インド向け輸出量(出所:マッチ工業統計総覧)】

明治22年 954 マッチトン
23年 2,344
24年 580
25年 5,852
26年 22,040
27年 41,193
28年 63,774
マッチトンの定義
並型マッチ:(小箱寸法 長さ56・巾37・厚さ17)7,200個を1マッチトンとする。当時、1マッチトンを1梱包(木箱)にして輸出した。

明治27・28年には日清戦争が勃発し、一部の華僑は帰国し、戦争の影響で労働力の不足もあったが、中国向け輸出には大きな影響はなかったように見受けられる。
明治27年当時、農商務省特許局が大阪兵庫燐枝製造業組合聯合会を通して調査した全国マッチ業者の分布は次のようである。

兵庫県 28 工場
大阪府 26
東京府 18
岡山県 5
静岡県 3
広島県 2
愛媛県 2
青森県・香川県・徳島県 各々 1工場
合計 87 工場

マッチの呼称には変遷があり、燐寸(マッチ)が定着したのは明治20年以降である。
各種文献に掲載された呼称の主なものを時代順に並べると下記の通り。

(読み方不明はそのまま記載)

1852年(嘉永5年) 紅毛付木
1855年(安政2年) 付木
1857年(安政4年) 火寸(まっち)
1860年(万延元年) 引火奴(つけぎ)、発燭子、メッス
1863年(文久3年) 早付木(はやつけぎ)、火燭
1866年(慶応2年) 火燧
1867年(慶応3年) 火奴、ポスポル
1870年(明治3年) メッチ附木、ろうつけぎ
1871年(明治4年) 白末火、硫柿
1873年(明治6年) 西洋附木、マッチ
1874年(明治7年) 摺附木(すりつけぎ)
1875年(明治8年) まっち、はやつけぎ
1877年(明治10年) 磨附木(すりつけぎ)、黄燐剤蝋軸
1878年(明治11年) 懐中付木マッチ
1880年(明治13年) 画火柴(すりつけぎ)
1881年(明治14年) 擦ほくち
1882年(明治15年) 燐枝、火柴
1885年(明治18年) 洋燧(まっち)
1886年(明治19年) 木燧(すりつけぎ)、燐燧(まっち)
1887年(明治20年) 懐中火縄、燐枝(まっち)
1888年(明治21年) 燐寸(まっち)、木燧(まっち)、蝋附木(ろうまっち)
1891年(明治24年) 寸燐(まっち)

明治27・28年頃までは主に摺附木と燐寸の両方の用語が使われていた。