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マッチの歴史

マッチの創業

金星台の記念碑 明治2年(1869)に金沢藩の藩費でパリに留学した清水誠は、明治6年(1873)には廃藩置県で文部省留学生となり、同年フランスの工芸大学に入学している。7年に外遊中の宮内次官吉井友実とパリのホテルで会談した際、吉井卿が卓上のマッチを指さして「このようなマッチまで輸入に頼っているが、外貨不足の際これを日本で作れないだろうか」と言われて、清水誠はマッチを日本で製造する決心をしたといわれている。同年留学生の制度が廃止になり、帰国の際にフランス政府の要望により、日本で金星の太陽面通過を観測するフランス隊の一員として参加し、神戸で観測を実施した。今も神戸諏訪山公園の金星台に立っている金星観測記念碑に清水誠の名前が刻まれている。
清水誠 清水誠は官費留学生であったことから、8年に海軍造船官として横須賀造船所に勤務した。その傍ら暇ある毎に東京に出て三田四国町にある吉井友実の別邸を仮工場としてマッチの製造を始め、試売している。従って日本におけるマッチを工業的に製造を始めたのは明治8年(1875)となる。公務の傍らマッチの製造では仕事がはかどらなかったが、時に内務卿大久保利通に招かれ、「造船も大事だが、何とかなる。マッチに専念してはどうか」と勧告され退官して、本格的にマッチの製造に集中することとなった。
この年清水誠がマッチを製造するために軸木となる原木を求めて、日光山中に白楊を発見している。次いで、信州諏訪方面でも白楊を発見している。同年大阪でも小野久兵衛と小杉又三郎が協同してマッチ工場(後の昌燧社)をつくり生産している。
9年9月、清水誠は本所柳原町に一大工場を新築し、「新燧社」(しんすいしゃ)と名づけて本格的な工場生産を開始した。新燧社の代表的な商標には、桜印がある。
Contents
マッチ年表
1669-1912 〜明治
1912-1926 大正
1926-1989 昭和
1989- 平成
マッチの歴史
はじめに
マッチの黎明
マッチの創業
マッチの基礎固まる
マッチの進展時代
マッチの黄金時代
第1次世界大戦後の不況はじまる
スウェーデンマッチの日本上陸
第2次世界大戦に突入
戦後の廃墟から復興
マッチ製造機械化の進展
マッチの需要旺盛
マッチの代替品出現
マッチ業界の多角化
躍進続けるマッチ業界

  明治10年(1877)に開催された第1回内国勧業博覧会には新燧社のマッチを出品し、鳳紋賞牌(ほうもんしょうはい)が授与された。また、14年の第2回内国勧業博覧会では進歩1等賞を獲得した。これらの受賞は新燧社のマッチの品質が優れていたことを実証している。明治10年3月に神戸市山手通で堀という人が燐寸工場を新設したが小規模であった。これが神戸マッチ製造の先駆けである。
  函館の玉林治右衛門は服役中であったが、不自由な環境下、独力でマッチの製法を研究し、明治10年(1877)に試作に成功して、清水誠から優秀なマッチとの品質保証を得ている。玉林は明治13年(1880)函館燐寸製造所を設立した。
  清水誠が士族授産、産業振興の見地からマッチ製造法を公開したことも手伝って、各地にマッチ工場の建設が企画された。その主なものを掲げれば次の通りである。

葆光社(盛岡)慈恵社(尼崎)
就光社(姫路)積善社(膳所)
有恒社(岡山)徳潤社(徳島)
百做社(土佐)共勉社(高松)
真燧社(名古屋)葎律社(金沢)
  また、明治11年(1878)には長岡で燦盛舎が設立され、下津燐寸株式会社の前進である蜂蟻社(ほうぎしゃ)(高松)は明治12年(1879)に設立された。
  明治11年に初めて清国上海にマッチを輸出。これ以来、マッチが日本の重要な輸出商品の一つとなった。
  左の写真は新燧社の初期の商標の一つである。印刷が精巧であるのは、当時最高の印刷技術を持っている紙幣局(現在の国立印刷局)の印刷工場に依頼したためである。マッチそのものよりも商標の印刷費が高価についたとのことである。
  清水誠は大蔵卿大隈重信の依頼で糖業研究のため11年に再渡欧したが、既に糖業調査は実施中であったので、再度マッチの研究に入り、当時安全マッチ製造の中心であるスウェーデンのイェンシェピング工場を見学し、得るところが多かった。その欧州旅行中に新燧社が火災に遭い、全焼したが、12年帰朝するやその再建を図り、同所に新工場を建設した。一方、マッチ市販の円滑化のために全国唐物商人を網羅した開興商社を設立して、販売の一元化を図っている。これはマッチの輸入を防ぐのに効果を発揮した。
  明治12年に神戸のマッチ製造の重鎮となる本多義知が明治社を設立した。のちに商標偽造で問題を起こした中国人・廣駿源もこの年に神戸市内の生田でマッチ製造を始めている。
  明治13年(1880)には井上貞治郎が大阪に公益社を設立、神戸では瀧川辨三(べんぞう)が清燧社(せんすいしゃ)を設立した。名古屋でも杉山彌三郎が燐寸を生産した。(後の真燧社の前身)
  明治14年(1881)になると名古屋では長坂多聞が燧巧社を設立した。この年に北海道で白楊樹林が発見され、原木のまま内地に運ばれて軸木を生産している。14年から16年にかけてマッチ工場が乱立、製造技術未熟の上、乱売・安売りが出て、工場経営不能となり廃業するものがでた。特に輸出品に粗悪なものが出て海外の信用を失い、13年まで順調に輸出を伸ばして369,000円のマッチを輸出したのが、17年には僅か2,700円にまでに激減した。そのため約30社の小工場のうち、多くの工場が廃業に追いやられた。
  明治15年(1882)には輸出減少のため国内販売に転じたところ、安値競争が激化したので、その防止のため、大阪で仲間規約を設けた。これが大阪における同業組合のはじまりである。
  明治17年(1884)10月には「商標条例」を施行し、商標の登録制が制定されたが、当初は売行きの良いマッチの商標を模倣するものが後を絶たず、あまり効果はなかった。
  明治18年(1885)になると、業界は整理され、やや市場は回復の兆しが見えてきた。
この年、播磨幸七が神戸に鳴行社(めいこうしゃ)を設立。先に掲げた瀧川辨三の清燧社、井上貞治郎の公益社、本多義知の明治社、播磨幸七の鳴行社および明治20年設立の直木政之介の直木工場等が、その後のマッチ産業の担い手となり、マッチの隆盛に貢献した。また、毒性の強い黄りんを使用する黄りんマッチはこの年一旦製造禁止となっている。
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