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マッチ年表|1669-1912 〜明治

・:日本のマッチ界の出来事■:燐趣界の出来事●:海外でのマッチの出来事★:歴史、社会の出来事
Contents
マッチ年表
1669-1912 〜明治
1912-1926 大正
1926-1989 昭和
1989- 平成
マッチの歴史
はじめに
マッチの黎明
マッチの創業
マッチの基礎固まる
マッチの進展時代
マッチの黄金時代
第1次世界大戦後の不況はじまる
スウェーデンマッチの日本上陸
第2次世界大戦に突入
戦後の廃墟から復興
マッチ製造機械化の進展
マッチの需要旺盛
マッチの代替品出現
マッチ業界の多角化
躍進続けるマッチ業界
1669 (寛文9)年●ドイツ、ハンブルグの錬金術師H.ブラントが燐(りん)を発見。
1786 (天明6)年●フランスのC.L.ベルトレが塩素酸カリウムを発見。
1805 (文化2)年●フランスのJ.シャンセルが浸酸(しんさん)マッチ、即席発火箱(French Fire Machines )を発明。
1827 (文政10)年●イギリスの薬剤師J.ウォーカーが摩擦マッチ、ウォーカーマッチ(Friction Lights )を発明し、販売。
1828 (文政11)年
●イギリスのサムエル・ジョーンズが浸酸マッチ、プロメチアンマッチ(Promethean Match )を発明し、特許取得。
1829 (文政12)年●イギリスのサムエル・ジョーンズが摩擦マッチ、ルシファー(Lucifers)の名で販売。
1831 (天保2)年●フランスの化学者C.ソーリアが黄りんマッチを発明。
1836 (天保7)年●アメリカの火薬製造業者A.D.フィリップスが黄りんマッチの特許を取得し、製造。
1837 (天保8)年
・宇田川榕庵(ようあん)が欧州の文献を参考にマッチについての記述もある化学書『舎密開宗(せみかいしゅう)』を著す。
1839 (天保10)年
・高松藩士、久米通賢(くめつうけん)栄左衛門がドンドロ附木、吹弾子(雷汞(らいこう)マッチ)を発明。史実としてはわが国最初の国産マッチの発明。
1844 (弘化元)年●スウェーデンのイェンシェピング社がマッチ工場を設立、キッチンマッチの名で黄りんマッチを製造、販売。
1845 (弘化2)年●オーストリアのA.V.シュロッターが赤りんの精製に成功。
・12月25日、燐寸(マッチ)開祖、清水 誠(しみず まこと)、金沢に生れる。
1848 (弘化4)年・兵庫県加古郡横谷村(現在の三田市)出身の蘭学者、川本幸民(かわもと こうみん)が黄りんを使ったマッチの試作に成功。
1848 (嘉永元)年★デンマークのH.C.アンデルセンの童話『マッチ売りの少女』が出版。
1851 (嘉永4)年●イギリスのオールブライトが純度の高い赤りんで作られた赤りんマッチを第1回ロンドン万国博覧会に出品。
1853 (嘉永6)年★浦賀にペリー来航。
1855 (安政2)年●スウェーデン、イェンシェピング社のJ.E.ルンドストレームがスウェーデン式安全マッチを発明、特許取得。
1865 (慶応元)年●イギリスのブライアント・アンド・メイ社が安全マッチを製造、販売。
1869 (明治2)年●フランスのG.ルモアンが硫化りんを発見。
1870 (明治3)年・フラオンと称する外国人が横浜でマッチの製造を企図したとのことだが、詳しい資料は存在しない。
1873 (明治6)年・岩手県盛岡藩で士族授産施策のマッチ製造所「葆光社(ほうこうしゃ)」が設立。わが国最初のマッチ工場として明治18年まで操業。
1874 (明治7)年・函館懲役場で囚人であった玉林治右衛門がマッチの製造を試み、燐を製出。のちにマッチ製造を開始。
★12月18日、銀座にガス灯が点火する。
1875 (明治8)年●デンマークで黄りんマッチ製造禁止。
・横浜在留米国人ブラウァーが横浜戸部にマッチ工場「ジャパン・セイフティ・マッチ・カンパニー」を設立。最初の商標は汽車印。
・横浜弁天通りの持丸幸助がアメリカから機械を取り寄せ、平沼にマッチ製造所を設立。実はブラウァーの戸部工場であったとの説も有り。
★3月16日、『東京日日新聞』に初めて国産ビールの広告が出る。醸造者、甲府の野口正章、発売者、東京の山形 昇。
・4月、清水 誠、東京霞ヶ関、吉井友実卿私邸において黄りんマッチの試作に成功。
・大阪の小野久兵衛、小杉又三郎が後に「昌燧社(しょうすいしゃ)」とするマッチ工場を設立。大阪におけるマッチ工場の嚆矢。
1876 (明治9)年・4月、東京三田四国町にある吉井友実卿別邸において我が国初めての安全マッチを試製。
■5月23日、燐票蒐集大家・福山碧翠(ふくやま へきすい)、岡山県上道郡網浜村、士族・船橋美澄の二男に生まれ、幼少時、福山姓を継ぐ。通称、定次郎。
・9月、清水 誠、4月に東京三田四国町に設立したマッチ製造所「新燧社(しんすいしゃ)」を東京本所柳原町に移転し、安全マッチの本格的製造を開始。
1877(明治10)年・兵庫監獄使役場付属工場でマッチ製造を始め、明治14年まで続ける。
・服役中であった函館の玉林治右衛門が独力でマッチの製法を研究、試作に成功し、清水 誠から優秀なマッチとの品質保証を得る。
★8月21日〜11月30日、東京上野公園に於いて、「第1回内国勧業博覧会」が開催。
・第1回内国勧業博覧会に於いて、新燧社製安全マッチが鳳紋賞牌(ほうもんしょうはい)を受賞。
・神戸市下山手通りの堀某がマッチ工場を設立。神戸におけるマッチ工場の嚆矢。
1878(明治11)年・7月、清水 誠は大蔵卿大隈重信の依頼で糖業研究のため再渡欧中、再度マッチの研究に入り、スウェーデン式安全マッチの製造法視察のためスウェーデン、イェンシェピング工場を見学。
・9月、新燧社製マッチを清国上海へ初めて輸出、輸出額2万4000円 。輸出マッチの嚆矢。
・長岡で「燦盛舎(さんせいしゃ)」が設立。
1879(明治12)年●スウェーデンで黄りんマッチ製造禁止。
・4月、神戸の本多義知が「明治社」第一工場を設立。
・4月、清水 誠はスウェーデンから帰国後、渡欧中に全焼した工場を再建し、スウェーデン式安全マッチに倣ったマッチの生産を始める。
・士族授産施策のマッチ製造所として岡山県山藩「有恒社」、高知県土佐藩「百做社」が設立。
・清水 誠が全国唐物商を網羅し「開興商社」を設立。国産マッチの販売機関とする。
★日本橋の東陽堂が彩色銅版レッテルの印刷を始める。
・神戸の清商、廣駿源(こうしゅんげん)が神戸市内の生田でマッチ製造業を始める。清商のマッチ工場経営の嚆矢。
・愛媛県高松藩「蜂蟻社(ほうぎしゃ)」が設立。後に「下津燐寸株式会社」となる。
1880(明治13)年・外国マッチの輸入を防ぐ。輸入額1660円に激減。
・士族授産施策のマッチ製造所として兵庫県姫路藩「就光社」
が設立。
・6月、神戸の瀧川辨三(たきがわ べんぞう)が「清燧社(せいすいしゃ)」を設立。
・大阪の井上貞治郎が「公益社」を設立。
・名古屋の杉山弥三郎が後に「真燧社(しんすいしゃ)」と成るマッチ工場を設立。
・函館の玉林治右衛門が「函館燐寸製造株式会社」を設立。
1881(明治14)年・士族授産施策のマッチ製造所として金沢藩「葎津社」、滋賀県膳所藩「積塵社」、尼崎藩「慈恵社」が設立。
・兵庫監獄使役場付属工場でのマッチ製造は獄内発火危険物取締禁止令のため製造中止。
・神戸の秦銀兵衛が「第二清燧社」として創業。
★3月1日〜6月30日、東京上野公園に於いて、「第2回内国勧業博覧会」が開催。
・第2回内国勧業博覧会に於いて、新燧社製マッチが進歩一等賞を受賞。
・名古屋の長坂多聞が「燧巧社」を設立。
1882(明治15)年・士族授産施策のマッチ製造所として徳島藩「徳潤社」が設立。
・マッチ業者の乱立、対抗が過激さを増し、輸出量急落。第1期マッチ産業の苦難時代。
・国内販売による安値競争激化防止のため、大阪で仲間規約を設ける。これが大阪における同業組合のはじまり。
1883(明治16)年・粗悪品の輸出が激増し、輸出不振の弊害、深刻化。
1884(明治17)年・輸出高は記録的な最低の年、輸出量194マッチトン、2700円に激減。
★東京、岩谷商会が口付紙巻たばこ「天狗印」を発売。
★10月1日、わが国最初の商標法「商標条例」が施行。
1885(明治18)年・2月、姫路の高島米吉が「高島燐寸製造所」を設立。
・黄りんの毒性が問題となり、日本でも黄りんマッチ製造が一旦禁止。
・6月20日、清燧社「寝獅子(ねじし)」が商標登録制度施行によりマッチ商標の第1号として登録(登録第321号)。
・8月、新潟で「東亜燐寸株式会社」が設立。現在も操業。明治10年、小島宇三郎の「小島燐寸製造所」が前身。
・神戸の播磨幸七が「鳴行社(めいこうしゃ)」を設立。
1886(明治19)年・士族授産施策のマッチ製造所として愛媛県高松藩「共勉社」が設立されたが短命に終止。
・大阪のマッチ業者、松田善七が北海道最初の製軸工場を設立。以後、北海道に製軸工場が4、5工場に増える。
・神戸の泉田文四郎が「良燧社(りょうすいしゃ)」を設立。
・10月、神戸の秦銀兵衛が「秦燐寸工場」を設立。
・11月、明石の吉野治兵衛が「明燐社」を設立。
1887(明治20)年・4月、兵庫県燐寸製造組合が発足。輸出マッチの検査と商標の調査を開始。神戸税関構内に輸出燐寸検査所を設置。
・6月、兵庫の辰馬吉左衛門が「日新館」を設立。
・7月、神戸区物産品評会に於いて播磨幸七(鳴行社)、本多義知(明治社)のマッチが一等褒章を受章。
・8月、尼崎の小森純一が慈恵社の跡を継ぎ、「小森燐寸製造所」を設立し、輸出用黄燐マッチを製造。
・9月、神戸の直木政之介が「直木第一工場(奨拡社)」を設立。
・マッチ産業、第1期不振時代、脱却。
1888(明治21)年・大阪兵庫摺附木製造業組合聯合会を結成。事務所を神戸市湊町、支所を大阪に開設。
・9月、清水 誠が連軸マッチ(ブックマッチ)の特許取得(第556号摺附木)。ブックマッチの嚆矢。
・12月、新燧社、倒産。清水 誠は金沢に隠退。
1889(明治22)年★2月1日、「明治21年商標条例」が施行。
・マッチ輸出改善傾向。香港、シンガポール、インド、ラングーン、シドニーへ輸出。
・広駿源事件が起こる。治外法権を利用した清商・広駿源による売行良好の類似商標乱造に対する商標紛議。
・12月20日、直木マッチの象ベストが商標登録されるが、その後26種の類似商標が出回る事態となる。
・この年、初めて輸出高が100万円を突破し、10万マッチトン、113万7000円に達する。
1890(明治23)年★京都、村井商会、両切紙巻たばこ「サンライス」を販売。
・フランス領インドシナ、サイゴンで清燧社の桃印商標が勝手に流用される本邦燐寸商標侵害事件が突発。
・東京深川で清水 誠の跡を継ぎ、佐藤 力が「新燧社」を再開。
★4月1日〜7月31日、東京上野公園に於いて、「第3回内国勧業博覧会」が開催。
・第3回内国勧業博覧会に於いて、桃山日進社、大広社、製燧社、赤松館、東洋館、公業社などが受賞。
・8月、黄りんマッチの日本での製造解禁。
1891(明治24)年・直木政之介、農商務相陸奥宗光に陳情し、象ベスト類似商標の登録権の取り消しを図る。
1892(明治25)年・この年、輸出高が200万円を突破し、220万2000円に達する。
1893(明治26)年・日本郵船がボンベイ航路開始。インドへマッチを直接輸出。
・株式仲買玉塚商店が東京上野公園で催された福島安正中佐のシベリアからの帰国歓迎大祝賀会で広告マッチを配る。広告マッチの嚆矢。
1894(明治27)年・北海道での製軸工場が17工場となり、兵庫県産の製軸を凌駕。
・大阪で土井吉三郎が「土井燐寸工場」を設立。
★4月1日〜7月31日、京都岡崎公園に於いて、「第4回内国勧業博覧会」が開催。
★8月、日清戦争、勃発。
・9月、マッチ業者の全国組織、日本燐寸議会が発足。
1895(明治28)年
・第4回内国勧業博覧会に於いて、鳴行社、明治社、奨拡社、第二明治社、開栄株式会社が受賞。なかでも播磨幸七の鳴行社は、インプル軸を使用したことで有功一等賞を獲得。清水 誠が審査官。
・京都、村井兄弟商会が近畿での陸軍大演習に於いて煙草の宣伝マッチを配る。煙草マッチの嚆矢。
・12月、神戸で「日本紙軸燐寸製造合資会社」が設立。
1896(明治29)年・日本は清国の黄りんマッチ市場の75%を占有するまでに発展。
・直木マッチが三井物産と提携して初めてシンガポールに直輸出。邦人の手による本邦マッチ業者の海外輸出の嚆矢。
・10月、清水 誠、摺附木軸排列機の特許を取得し、全国に販売。
1897(明治30)年・瀧川辨三は良燧社を買収し、「良燧合資会社」に改組。その際、譲渡価格12万円のうち尾長印マッチ商標等に5万円を付ける。
・神戸市燐寸軸木商同業組合が発足。
・清水 誠、尼崎にマッチ工場「旭燧館」の設立を申請し、新燐寸軸排列機の特許も得てマッチ事業へ貢献を果たす。
1898 (明治31)年・兵庫県燐寸同業組合が発足。
・この頃から摺附木(すりつけぎ)の名称は用いず、燐寸(マッチ)の表記とした。但し、商標法での類別名は、明治42年まで摺附木の名称。
・この年、輸出高が600万円を突破し、627万4000 円に達する。
●フランス専売公社のE.D.カーヘンとH.サベーヌが黄りんを使用せず硫化りんによる摩擦マッチ(硫化りんマッチ Strike Anywhere Matches)を発明、特許取得。
1899 (明治32)年・2月8日、清水 誠、逝去、享年数えで55歳。8月、東京亀戸天神境内に「紀功碑」建立。
★7月1日、商標法「明治32年法」が施行。
1900 (明治33)年★北清事変、勃発。
●イギリスのブライアント・アンド・メイ社はフランスの許可を得て、硫化りんマッチStrike Anywhere Matches の生産開始。
・大阪、公益社の井上貞治郎が細軸(1.5mm軸)マッチを考案。安全マッチ1箱の軸木入本数を通常の60本から90〜120本までにする。
■福山碧翠、東京上京。稲垣古泉と共同で京橋八丁堀に「奴煙草屋」開店。愛燐家村上群雀と知りあい、燐票収集を開始。
1901 (明治34)年・合昌号の陳平斉と森井楳太郎とでマッチ工場を買収し、「日進合名会社」を設立。
1902 (明治35)年・この年、輸出高が800万円を突破し、816万9000 円に達する。
★日英同盟協約、調印。
■福山碧翠、「奴商行」創業、マッチを取扱う。
■福山碧翠、本所双葉町で蔵前燐寸社・真野助次郎とマッチ問屋岐阜屋・安田寛堂と共同で「三明社」を設立、広告マッチ製造を開始。
■12月3日、燐票蒐集家の元祖・根岸武香(ねぎし ぶこう)翁、逝去。享年63歳。
1903 (明治36)年★3月1日〜7月31日、大阪天王寺今宮に於いて、「第5回内国勧業博覧会」が開催。
・第5回内国勧業博覧会に於いて、ドイツ製のマッチ箱詰機、包装機、側薬機が出品される。
■11月24日、福山碧翠、柳川一蝶斎、桂文楽、早川中唐らと「燐枝錦集会(りんしきんしゅうかい)」創立。第1回会合開催。
●スウェーデンの六大マッチ会社が合同し「イェンシェピング・オルガン燐寸会社」が設立。
1904 (明治37)年●スイス、ベルンで開催された国際労働者保護会議において黄りんマッチの製造禁止条約が締結。日本は条約に加入せず。
■福山碧翠、燐寸工場での薬品爆発事故で大火傷。スポンサー付き奴広告マッチを考案するもあまり繁盛せず、後に廃業。
★2月、日露戦争、勃発。
・神戸に「日本商標印刷合資会社」が設立。
★7月1日、煙草専売法、実施。民営たばこが姿を消す。
1905 (明治38)年・アメリカのダイヤモンドマッチ会社から日本政府に対し、日本の政府公債700万円を引き受ける申し出があったが、マッチ業界との条件が合わず破談となる。
・「日本燐寸同業組合」が発足。兵庫県燐寸同業組合は解散。
★9月、日露戦争、終結。ポーツマス講和条約、調印。
・この年、輸出高が1000万円を突破し、1036万円に達する。
1906 (明治39)年・9月、金沢卯辰山公園内に「清水 誠先生顕彰碑」建立。
1907 (明治40)年・1月、直木政之介、本多義知を中心に三井物産合名会社と提携して「日本燐寸製造株式会社」設立。
■「燐枝錦集会」の会名を「日本燐枝錦集会」に改称。
★3月20日〜7月31日、東京上野公園に於いて、「東京勧業博覧会」が開催。
■3月25日、福山碧翠により東京勧業博覧会内の中央新聞ホーム館接待休憩所に於いて、「日本燐枝錦集会・燐票展覧会」が開催。
・この年、総生産量が国産最大の114万マッチトンとなる。内輸出量は67万マッチトン。
1908 (明治41)年■5月14日、福山碧翠により「日本燐枝錦集会・燐票展覧会」横浜羽衣座に於いて開催。
■8月、福山碧翠により「少年愛燐会」東京に於いて創立。
■福山碧翠、両国吉川町に燐票専門販売店「清林堂」開業。
1909 (明治42)年★商標法「明治42年法」が施行。連合商標制度が導入。
1910 (明治43)年■福山碧翠、住居、浅草吉野町に移転。
■10月20日、「日本燐枝錦集会・第15回大会」開催。会員愛燐家絵図発表。
■8月、帝都大洪水に遭い、福山碧翠、蒐集帳とともに待乳山に避難。
1911 (明治44)年■4月9日、福山碧翠、吉原の大火に遭う。
■4月、福山碧翠、東京を離れ、静岡、名古屋を巡歴した後、神戸へ移転し、湊川新開地で燐票販売店を開業。
■小林萬年、福山碧翠により「神戸燐枝集好会」創立。
・日本安全燐寸同業組合、日本黄りん燐寸同業組合が発足し、両者連合として「日本燐寸同業組合聯合会」を設置。
★辛亥革命、勃発。
1912 (明治45)年★1月、中華民国の成立。孫文、臨時大総統就任。
■1月28日、「燐票一品会・燐票展覧会」東京に於いて開催。
■2月25日、福山碧翠により「神戸少年愛燐会」創立。
■4月、福山碧翠により「神戸少年愛燐会・燐票展覧会」湊東倶楽部に於いて開催。
★7月30日、明治天皇、崩御。
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