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column14 幻の大元帥票・後編

大元帥票の評価

 燐票界における赤の大元帥の評価は、福山碧翠翁が定めた燐票の等級によると最高峰の「名誉」に該当し、その評価額は100円としている。(『錦』大正11年2月発行)
 等級は16等級に分類し、以下、大賞(50円)、金賞(30円)、銀賞(20円)、銅賞(15円)、有功(10円)、進歩(5円)、褒賞(3円)、極等(2円50銭)、特等(2円)、優等(1円50銭)、一等(1円)、二等(50銭)、三等(30銭)、四等(20銭)、五等(10銭)と定めている。
 明治、大正、昭和初期にわたって大元帥の評価については、当時の愛燐家なりに評価額のバラつきがみられるが、主な評価としては明治45(1912)年1月発行の『萬朝報』(東京で明治25(1892)年11月1日に創刊された日刊新聞)では赤に50円の評価を報じている。大正14(1925)年発行の大阪燐枝交友会機関誌『愛燐界』4号では赤に50円、黒は5円、昭和4(1929)年発行の大阪燐枝交友会の近藤無がく編纂の『燐票カタログ』第2号では赤に100円、黒は7円を付けている。ただ、評価の基準は並票の評価であり大判票についての評価記載は未だかつて何処にも記載がなく算段の手だてがないが並票よりも明らかに稀少であることは間違いないであろう。
 評価額の換算については、誰もが「今ならいくら?」と興味持つところ。
 物価の貨幣価値を調べるには日本銀行が作成している企業物価指数や内閣統計局作成の消費者物価指数を参考にして倍率を調べればよいのだが、その数値で倍率を計ると実際の社会生活で感じる価値に大きなズレを生じ、その倍率は少な過ぎる。そこで、実感に見合うモノの価値、金額の重みを踏まえておおよその換算をすると、明治初期では12,000倍、明治中期から後期頃では6,000倍、明治後期から大正期頃では4,000倍、昭和初期では3,000倍、戦前では2,000倍、戦後から今日では10倍ほどになる。

Column Content

Column01|マッチの発明は、ヨーロッパから
Column02|清水 誠と新燧社商標
Column03|国産第一号の燐票いろいろ
Column04 | 岩谷の天狗煙草票
Column05 | スウェーデンにある世界唯一のマッチ博物館
Column06 | 苫小牧市博物館 「マッチワンダーランド」展覧会記
column07 | 神戸大学付属図書館「近代神戸の源流を訪ねて・鈴木商店とマッチ産業の盛衰」展覧会記
column08 | アンデルセン「マッチ売りの少女」の絵本
column09 | マッチと花火
column10 | 木版の版木商標
Column11 | 中華民国向け燐票
Column12 | インド向け輸出マッチ
Column13 | 幻の大元帥票・前編
Column14 | 幻の大元帥票・後編

 大まかではあるが、この倍率で大元帥の当時の評価を照らし合わせると明治45年時の赤だと30万円、大正14年時の赤は20万円、黒は2万円、昭和4年時の赤は30万円、黒は21,000円の価値になりそうである。しかし、普段の生活に関わる商品と違い、狂信的愛燐家同志の骨董的価値観の盛り上がり次第で現在では赤においては20万〜300万円、もしくはそれ以上の評価をもって大きく分かれるところである。
 それにしても大元帥の文字や菊花紋章図像でなければ面白くもなんともない単純な旗と文字の赤ベタ単色刷り票なのに商標の規約に反したものを世に出すことでこうも評価が上がるとは世の中わからないものである。

大元帥票の販売元

 商標柄を見ると菊花紋章と旭日の交叉旗に大元帥の文字を配した図版の下部に専売元として「中村一手捌」の文字が彫られている。
 一手捌き制とは、販売を一手に引き受け捌く、いわゆる独占販売を意味するが、店主、中村茂八は東京市日本橋区小網町一丁目7番地で荒物乾物絵具商を営む問屋で大阪屋の中村、通称、大茂ともいう。荒物、傘の他摺附木商として燐寸も扱い、燐寸商標の権利者となって明治26(1893)年から明治34(1901)年までに大元帥、突貫、大勲位、豊国、武内大臣、武蔵坊、風車、大学生の商標を保有した。
 中村茂八は、大正5(1916)年時の時事新報による全国50万円以上の資産家一覧に財産150万円(企業物価指数による換算では現在の約14億円に相当)として名を連ねていることから製造元より強い立場に立てたのだろう。ちなみに燐寸製造業では、兵庫の瀧川辨三が50万円、瀧川儀作が70万円、直木政之介が60万円、秦銀兵衛が50万円、大阪の井上重造が100万円、同じく小網町で雑貨商として燐寸も扱っていた森友徳兵衛は50万円となっているから中村茂八はそこそこの資産家である。

大元帥票の製造元

 では、一体、大元帥のマッチは、何処の燐寸製造業者が作ったのか。不思議なことに過去の燐票大家の面々の誰もがそのことに触れておらず、販売元の大茂(中村商店)へ大元帥がもしかして残ってやしないかと尋ねてはみるのだが製造元を尋ねる行脚記は見かけない。考えられることは燐趣界において大元帥探索で盛り上がりを見せた頃にはもう製造業者は消失してしまっていたのかもしれない。とにかくこれだけ燐趣界を沸かせた大珍品票なのに僅かな情報しかないこと自体がミステリーである。
 しかし、ここで唯一、重要な手がかりとなる記述を見出した。燐趣機関誌『愛燐界』3号(大正14年10月発行)内、連載「昔と今」の題で当時、燐趣界番付で大関を張っていた近藤気楽(無がく)氏が次のようなことを述べている。
 「大元帥という燐寸は日清戦争当時、名古屋で製造され、東京および東京近郷で販売された物です」とある。
 当時、名古屋は内国向け燐寸製造の盛んな処である。そこで、日清戦争時の明治26年、27年の農商務省特許局発行の『商標公報』を調べてみると明治26(1993)年12月8日、第5262号として登録されている「武内大臣」の商標権者が東京の摺附木商、中村茂八と連名で摺附木製造業として愛知県名古屋市所在の明栄社、加藤邦之助の名が記されている。また、同じく明治26年10月16日、第5186号で登録の「武蔵坊」の商標権者は中村茂八となっているが商標図版内には燐寸製造業者の明栄社の表記がある。このことから当時は販売元の中村茂八(大阪屋)と製造元の加藤邦之助(明栄社)はパートナーシップを組んでいたことがみてとれる。とすれば、商標公報には未掲載なので確証はないが大元帥もこの時期にこのネットワークで作られたのではないだろうか。ちなみに、明栄社は、明治36(1903)年4月まで商標登録している記録がある。
 こうして推しはかることで100年以上経った今、むかしから伝えられている通り一遍の流言とは異にする新発見も加えて発信できたことは今後の燐票探求にとって一石を投じることになるかもしれない。

「商標公報」武内大臣 黒の武内大臣 二色の武内大臣 「商標公報」武蔵坊

大元帥票発禁以降

 大元帥票が発売禁止されてから以降、大元帥に替わる「中村一手捌」商標は、突貫、大勲位、豊国と相次いで発行されたが、燐寸商標として農商務省特許局へ申請し、登録を果たしたものは、明治28(1895)年3月4日、第6354号として登録された大勲位商標のみである。大勲位とは、国家が与える栄典のなかで最高位の勲章をいう。

「商標公報」大勲位 突貫

赤の大勲位 黒の大勲位 赤の豊国 黒の豊国

 最後に余談ではあるが、昭和初期になって流行り出した木版趣味票(個人票・記念票)のなかにも愛燐家のひとり、内山寳玉が制作した明治天皇敬拝票がある。

個人趣味票 明治天皇 個人趣味票 明治天皇 敬拝明治天皇 敬拝明治天皇

JMCC創立10周年記念票  現代においては、ジャパン・マッチラベル・コレクターズ・クラブが創立10周年記念として1991(平成3)年にオーダーマッチ・スタイルの両面に蘭渓文庫から黒の大元帥票を転用し、赤と黒に刷り分けて配した記念票を発行した。

 以上をもって大元帥票の考察は一旦締めとするが、この先、どんな処からどんなカタチでどれほどの大判小判の大元帥が日の目を見るかわからない。これまで、震災、火災、水難の天災や戦争における空襲、爆撃でどれだけのモノが焼失してしまったのかは誰も知りようがない。果たして何枚の大元帥票が震災、戦火をくぐり抜けてきているのだろうか。
 「汝レッテルは路頭に迷い、果ては土に化さんより寧ろ拾われて本帖の華となれ! 喝何枚駄物。」

参考文献:

  1. 1)
    『錦』 大正9年11月 創刊号〜昭和12年4月 第83号 : 日本燐枝錦集会の総帥、福山碧翠と亡き後を引き継いだ古屋蘭渓による趣味の燐票雑誌。
  2. 2)
    『愛燐界』 大正14年8月 創刊号〜昭和11年5月 第100号 : 大阪燐枝交友会主任の中尾佐太郎による燐票趣味機関誌。
  3. 3)
    『燐票カタログ』 昭和4年9月 第2号 : 大阪燐枝好友会の近藤無がく編纂による燐票評価型録。
  4. 4)
    『商標公報』 明治21年1月 第1号〜明治36年12月 第360号 : 農商務省特許局発行の登録商標記録刊行誌。
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